ホリショウのあれこれ文筆庫

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第281話 傀儡将軍・藤原頼経

序文・名ばかりの将軍

                               堀口尚次

 

 藤原頼経(よりつね)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂家将軍九条頼経とも呼ばれる。

 両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠縁ながら血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された宮騒動〉。

 3代将軍・源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府は皇族を将軍に迎えようとして、有力御家人一同が連署した上奏文を携えた使者を京都へ送ったが、後鳥羽上皇に拒否される。そのため源頼朝の同母妹坊門姫の曾孫にあたる2歳の頼経が鎌倉に迎え入れられた。三寅(みとら)〈頼経の幼名〉の鎌倉下向から数年間は北条政子が尼将軍として三寅を後見して将軍の代行をしていた。その後、承久の乱をはさんで、6年後の嘉禄元年、元服し頼経と名乗る。翌嘉禄2年、将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。寛喜2年、2代将軍・源頼家の娘で16歳年上の竹御所を妻に迎える。しかし、北条義時・政子姉弟の担ぎ挙げた傀儡(かいらい)将軍であり、頼経の元服直前に義時と政子が相次いで死去するものの、その立場は北条泰時と叔父時房に引き継がれた。加えて天福2年には正室・竹御所が死去したこともあり、将軍としての実権はなかった。

 しかし頼経は、時の執権北条経時により将軍職を嫡男の頼嗣(よりつぐ)に譲らされた後も、なお鎌倉に留まり、「大殿」と称されてなおも幕府内に勢力を持ち続けた。

 その後京へ追放されると赤痢のため39歳で薨去(こうきょ)。翌月には頼嗣も死去している。この頃、日本中で疫病が猛威を振るっており、親子共々それに罹患(りかん)〈病気にかかる〉したものと思われるが、歴史研究家は九条家3代の短期間での相次ぐ死を不審がり、何者かの介在、関与があったのではないかと推測している。

 頼経と頼嗣の2代を摂家将軍・藤原将軍・公卿将軍と呼ぶ。頼経の死に際して、中流公家の日記では「将軍として長年関東に住んだが、上洛の後は人望を失い、遂には早世した。哀しむべし、哀しむべし」と記している。

 源氏の直系が絶えた後、京から源氏遠縁の上級公家の血筋として鎌倉に迎えられた藤原頼経であるが、北条政子が仕組んだ傀儡政権であることは否めない。

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