ホリショウのあれこれ文筆庫

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第284話 悲しすぎる駒姫の最期

序文・戦国時代の政略結婚の代償

                               堀口尚次

 

 駒姫(こまひめ)は、安土桃山時代の女性。最上義光(もがみよしあき)〈山形藩初代藩主〉の次女で、豊臣秀次豊臣秀吉の姉の長男〉の側室候補。伊達政宗の従妹(じゅうまい)〈年下のいとこの女性〉に当たる。彼女の名は御駒山(おこまやま)〈東北の霊山〉からとられている。

 駒姫は、その類いまれな美しさから父母に溺愛されて育ったという。時の関白・豊臣秀次は、東国一の美少女と名高かった駒姫の噂を聞き、側室に差し出すよう義光に迫った。義光は断ったが度重なる要求に折れ、15歳になったら娘を山形から京へと嫁がせると約束する羽目に陥る。なお、九戸政実(くのへまさざね)〈東北の武将〉討伐の帰途、山形城に立ち寄った秀次を、義光が当時11歳の駒姫に接待させたという挿話(そうわ)〈エピソード〉は後世の創作とみたほうが妥当である。

 文禄4年、駒姫は京に到着し、最上屋敷で長旅の疲れを癒していたところ、7月15日、秀次は謀反の疑いをかけられ、豊臣秀吉の命により高野山切腹させられた。そして駒姫も8月2日に他の秀次の側室達と共に、三条河原に引き立てられ11番目に処刑された。まだ実質的な側室になる前だったと言われている。父の義光が必死で助命嘆願に廻り、各方面からも処刑せぬようにと声があがった。秀吉もついにこれを無視できなくなり「鎌倉で尼にするように」と早馬を処刑場に派遣した。しかしあと一町の差で間に合わなかった。駒姫は享年15。

 辞世の句は、「罪なき身を世の曇りにさへられて共に冥土に赴くは五常のつみもはらひなんと思ひて 罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」(罪なき私の身も、世の中のよこしまな動きに邪魔されているが、みんなともに冥土にいったならば五つの徳目に背いた罪もなくなるだろうと思って、罪を切る弥陀の剣にかかる我が身、どうして成仏できない五つの差し障りなどあるでしょうか、きっと極楽浄土にいけることでしょう)。

 彼女らの遺体は遺族が引き渡しを願ったが許されず、その場で掘られた穴に投げ込まれ、さらにその上に「畜生塚」と刻まれた碑が置かれた。そのむごたらしさに都人は浅ましいとも何とも言いようがない思いを感じたと伝わる。

 娘の死を聞いた母も、処刑の14日後に亡くなった。娘の跡を追った可能性は高いとされている。義光の憤激と悲嘆も激しく、この悲劇がのちに義光が関ヶ原の戦いで東軍に属する伏線になったとする指摘もある。

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