ホリショウのあれこれ文筆庫

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第285話 異端児・高杉晋作

序文・将軍に「よぉ!征夷大将軍!」と声かけした?

                               堀口尚次

 

 高杉晋作は、幕末長州藩尊皇攘夷志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、松下村塾四天王の一人となった。師の松陰が安政の大獄で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をするが、藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は処刑される。

 文久2年、晋作は「薩摩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。

 折りしも、外国公使がしばしば武州金澤〈金沢八景〉で遊ぶからそこで刺殺しようと同志らと相談したが、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる

 その後には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。この事件の後、他の同志たちが次々と京都に向かうなか、晋作はそのまま江戸に居座り松蔭改葬などを済ませたが、京都にいる世子の命を受けた志道聞多が晋作を迎えに来て共に京都に向かった。京都に呼び寄せられた晋作は、藩が晋作に就かせようと考えていた朝廷側との交渉役である学習院用掛の役を辞退し、突然十年の暇を願い出た。それが許されると翌日には頭を丸めて僧形になってしまった。

 京都では薩摩藩会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変長州藩が追放され、文久4年、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。

 幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派〈晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した〉が台頭するが、晋作は長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵のちに奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年には俗論派の首魁らを排斥して藩の実権を握る。

 肺結核で亡くなるが〈享年29〉、辞世の歌として「おもしろきこともなき世をおもしろく」を看病にあったっていた尼僧〈勤皇歌人〉に託している。

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