ホリショウのあれこれ文筆庫

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第287話 天誅組の変

序文・維新の魁

                               堀口尚次

 

 天誅(てんちゅう)組の変は、幕末の文久3年に吉村虎太郎をはじめとする尊皇攘夷浪士の一団天誅組が公卿・中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である。その活動は文久3年8月17日の大和国五條代官所討ち入り〈挙兵〉から、幕府の追討を受け転戦してのち、同年9月24日~27日大和国東吉野村で多くの隊士が戦死して壊滅するまでの約40日である。

 文久3年前半期は尊皇攘夷運動が最高潮に達した時期であり、長州藩や各地から集結した浪士などから成る尊攘派は、朝廷にも強い影響力を持つに至っていた。この頃の尊攘派の主張には、朝廷が直接各藩に攘夷を命じることのほか、畿内を朝廷の直轄領とするなどの意見がみられたが、天誅組の蜂起は、幕府に対する尊攘派倒幕運動における初めての組織的な武力蜂起という点で画期的なものであった。

 槍隊、鉄砲隊が編成された。総勢は1000人余。脱藩浪士が指揮し、隊士の主体は十津川郷士であった。浪士は土佐藩久留米藩出身者が中心であった。身分は郷士や庄屋、神官、僧侶。年齢は13歳から46歳までいて、20歳代の若者が多い。主将の中山忠光は19歳であった。

 天誅組の挙兵自体は短期間で失敗に終わったものの、幕府領支配の拠点である陣屋や、小大名とはいえその居城が公然と襲撃されたことは、幕府や幕藩領主らに大きな衝撃を与え、幕府の威光の失墜を更に進行させる結果となった。 

 事件の収束後、天誅組に関しては罪人扱いされ、明治維新後もしばらくは忘れ去られていたが、土佐脱藩の隊士については、明治16年靖国神社に合祀され、明治21年以降、他の隊士についても合祀されるようになった。

  因みに天誅とは、神などの人間を超越した存在が、悪行を行った人間に対して誅伐を下すこと。天罰。転じて、日本のためにならない人を殺すことを「天の誅伐(ちゅうばつ)の代行」の意味合いで用いられるようになった。

 幕末に尊皇攘夷の志士たちが、幕府や佐幕派に対して「天誅!」と叫んで斬り込んでいる場面を時代劇などでよく見る。天誅組の変は、約40日で鎮圧されたが、その志(こころざし)は「維新の魁(さきがけ)」となったのだ。

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