堀口尚次
桶狭間の戦いは、永禄3年に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の合戦。2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲、または正面から攻撃し、今川義元を討ち取った。
戦後、東海地方を制圧していた今川家が没落する一方、織田信長は尾張を完全統一したうえ機内制圧へと台頭するきっかけとなった。松平元康〈徳川家康〉は三河で独立を回復して信長と清州同盟を締結し、これが戦国時代の転機となった。
「桶狭間山」の位置ははっきりとはわかっていない。延享2年の大脇村〈現・豊明市〉絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、天明元年の落合村〈現・豊明市〉絵図において落合村と桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されている。
一方、江戸時代に描かれた桶狭間の戦いの合戦図の中には、今川義元の本陣所在地として江戸時代当時の桶狭間村〈現・名古屋市緑区〉の辺りにある丘を図示したものが見られる。 桶狭間は慶長13年検地で村名となっている。
豊明市と名古屋市緑区の「本家争い」は、今川義元戦死の地が大脇村に属していたか桶廻間村に属していたかについて、後年のそれぞれの所属自治体〈愛知郡豊明村→同郡豊明町→豊明市、知多郡有松町→名古屋市緑区〉が自らの行政区域に属すると主張しあうことで、繰り広げられてきたものである。義元敗死の地をもって古戦場と見なす考えかたから、現在それぞれ「桶狭間古戦場伝説地・豊明市」・「桶狭間古戦場跡〈桶狭間古戦場公園〉・名古屋市緑区」として、それぞれの自治体から史跡の扱いを受けている。
双方は直線距離で約1km離れているが、ちょうど豊明市と名古屋市緑区の境界線を跨ぐ位置関係にある。長いあいだ続いてきた「本家争い」によって、合戦の場所が実際以上に不確定と思われてきた面も否めず、近年に至り、観光面で熱心に宣伝されてこなかったことを改めるべく名古屋市緑区と豊明市は桶狭間の戦い関連のイベントを合同で盛り上げてゆくことを考えているとのことである。草葉の陰で、織田信長や今川義元はどう思っているだろうか・・・。