ホリショウのあれこれ文筆庫

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第292話 彦根藩側から見た「桜田門外の変」

序文・譜代筆頭であり大老という立場

                               堀口尚次

 

 桜田門外の変は、安政7年3月3日に江戸城桜田門外〈現在の東京都千代田区霞が関〉で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。

 彦根藩側は、襲撃により、藩主である直弼以外に8名が死亡し〈即死者4名、重傷を負い数日中に死亡した者4名〉、他に5名が重軽傷を負った。藩邸では水戸藩に仇討ちをかけるべきとの声もあったが、家老・岡本半介が叱責して阻止した。死亡者の家には跡目相続が認められたが、事変から2年後の文久2年に、直弼の護衛に失敗し家名を辱めたとして、生存者に対する処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知の上、藩領だった下野国佐野〈現・栃木県佐野市へ流され揚屋に幽閉された。軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶となった。処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなった。

 当時の公式記録としては、井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭である井伊家の御家断絶と、それにより誘発される水戸藩への敵討ちを防ぎ、また、暗殺された直弼自身によってすでに重い処分を受けていた水戸藩へさらに制裁を加えることへの水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐための、老中・安藤信正ら残された幕府首脳による破格の配慮であった。井伊家の菩提寺豪徳寺にある墓碑に、命日が「三月二十八日」と刻まれているのはこのためである。これによって直弼の子・愛麿による跡目相続が認められ、井伊家は取り潰しを免れた。

 直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外にて負傷した旨の届けが幕府へ提出され、将軍家からは直弼への見舞品として大量の薬用・御種人参などが藩邸へ届けられている。これに倣い、諸大名からも続々と見舞いの使者が訪れたが、その中には藩主・徳川慶篤の使者として当の水戸藩の者もおり、彦根藩士達の憎悪に満ちた視線の中で重役の応接を受けた。井伊家の飛び地領であった世田谷〈現・東京都世田谷区〉の代官を務めた大場家の記録では、表向きは闘病中とされていた直弼のために、大場家では家人が病気平癒祈願を行なっている。その後約2か月間、幕府側は直弼の死を公表しなかった

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