ホリショウのあれこれ文筆庫

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第293話 八甲田雪中行軍遭難事件

序文・真実は雪の中に・・・

                               堀口尚次

 

 八甲田雪中行軍遭難事件は、明治35年1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡〈うち6名は救出後死亡〉するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である

 日本陸軍は、明治27年日清戦争で冬季寒冷地での苦戦を強いられた経験を踏まえ、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦に向けた準備をしていた。日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊(きっきん)の課題であった。対ロシア戦は10年後の明治37年日露戦争として現実のものとなる。雪中行軍は青森歩兵第5連隊210名が1902年1月23日から、弘前歩兵第31連隊37名と新聞記者1名が1月20日から2月1日までそれぞれ異なる経路を行軍した。

 青森歩兵第5連隊は、冬のロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が不通となった場合、物資の運搬を人力ソリで代替可能か調査することが主な目的であった。弘前歩兵第31連隊の計画は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実施してきた演習の総決算であった。なお、両連隊は、日程を含め、お互いの雪中行軍予定を知らずに計画を立てた。

 この行軍の総参加者数210名に対し、生存者数は11名という生存率5.2%という最悪の事態となった。遭難の詳細については生存者の証言に異同があり、軍部の圧力または情報操作により、戦争に向けて民間人の軍部への批判をかわすことを目的に、真実が隠されたり、歪曲(わいきょく)された節がある。

 新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』の終章に、事件後に陸軍と国家が取った対応として遺族には国家から恩給が与えられ皇室からは祭粢料(さいしりょう)〈神への供物=一般の香典に当たる〉が下賜されたことに続いて、「遭難者は戦死者と同じように扱い、靖国神社に合祀するということを聞いて、遺家族や国民もようやく納得した」と書かれているくだりがあるため、この事件の遭難者が靖国神社の合祀対象となったという誤った説が、長い間流布される結果となったが、上記の情報は誤報であったことが、詳細に明らかにされた。

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