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第296話 両統迭立から南北朝の動乱へ

序文・今上天皇北朝

                               堀口尚次

 

 両統迭立(りょうとうてつりつ)は、一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態である。「迭」は「たがいに」「かわるがわる」の意。日本では、鎌倉時代に皇統が2つの家系に分裂し、治天(ちてん)〈天下を治めること〉と天皇の継承が両統迭立の状態にあったことが最も著名である。

 鎌倉時代両統迭立は、後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫の「持明院統」と、第4皇子亀山天皇の子孫の「大覚寺統」とのあいだで行われた。

 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然な形の皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが鎌倉幕府倒幕と建武の新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦いが起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。

 南北朝正閏(せいじゅん)とは、南北朝時代において南朝北朝のどちらを正統とするかの論争。「閏とは「本来あるもののほかにあるもの」「正統でないあまりもの」を意味する字である。

 第二次世界大戦後は、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった。ただし、宮内庁を始めとして、天皇の代数は南朝で数えるのが主流となっており、南朝を正統としていることになる。

 また、太平洋戦争の敗戦直後には、熊沢寛道に代表される自称天皇が現れ、自身が南朝の子孫であり正統な皇位継承者であると主張した、などのエピソードもある。戦前は皇位や皇族を僭称(せんしょう)〈自分の身分を超えた称号を勝手に名乗ること〉することは不敬罪として厳重な処罰対象であったが、GHQ体制下で取締りが弱くなった戦後の一時期、皇位継承者を自称する者たちが各地に出現し、世間の耳目を集めた。熊沢はこれら「自称天皇」の代表的存在である。

 まさか南北朝の動乱が、昭和の時代まで皇位僭称者として影響を与えるとは誰が予測できただろうか。

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