ホリショウのあれこれ文筆庫

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第299話 決意の自害・山内豊福

序文・忠に生きるか孝に生きるか

                               堀口尚次

 

 山内豊福(とよよし)は、江戸時代後期から幕末にかけての大名。土佐新田藩5代藩主。宗藩と旧幕軍の板ばさみとなり、33歳で妻の山内典子(かねこ)とともに自刃した。

 土佐藩支藩である土佐新田藩は、1万3000石を本藩より分与され立藩した。藩主は参勤交代を行わない定府(じょうふ)大名であったため、代々江戸麻布古川町上屋敷に居住したことから、麻布山内家と称された。

 豊福は、筑前国秋月藩主・黒田長元(ながもと)〈土佐藩主・山内豊策(とよかず)の五男〉の次男として誕生した。嘉衛6年、4代藩主・山内豊賢(とよかた)の養嗣子となる。同年12月、13代将軍徳川家定に拝謁する。安政3年6月、養父の隠居により家督を継いだ。同年12月、従五位下遠江守に叙任する。本家の山内容堂土佐藩15代藩主〉を助けて新田藩の軍制を洋式化し、軍備増強に努めた。急進的な佐幕派であったが武力行使には反対で、徳川家の幕府存続には賛成であった。

 江戸常駐の豊福は、大政奉還ののち、鳥羽・伏見の戦いで敗走した徳川慶喜江戸城に戻ると、大名・旗本の呼び出しにより登城した。慶喜は「山内容堂の勧めで政権を返上したにもかかわらず、逆賊の汚名を着せられ、土佐の策略にはまったようだ」と言い、豊福は本藩・土佐藩への批判の矛先を向けられる。城内では薩長軍と戦う機運となるが、豊福は数日前に容堂から一刻も早く京都に来るように命じられていた。しかしすでに江戸脱出は不可能で、幕府と本藩の板挟みとなった豊福は自害を決意した。慶応4年1月13日に継室・典子と共に自害して果てた。享年33。

 以下に、高知の御殿山にある二人のお墓の傍にある立札の一文を紹介する。

 『幕末の政局にあって、容堂公の弟分として国事に奔走。心ならずもの倒幕の荒波にのまれた土佐本藩の度重なる本藩交流の命に対し、土佐麻布支藩藩主・山内摂津守豊福と妻典子は、徳川家に対し忠に生きるか、土佐本藩に対し孝に生きるか苦慮する中、幕府・本藩共に自重を促す中、慶応4年1月13日夜、夫婦とも自害。二人の娘、姫、豊姫を残していくことの親のつらさを心情吐(と)露(ろ)した遺書は、今に伝えられ涙なくして語ること叶わず、万感胸にせまるものがある。』

 定府大名であり支藩であったことが、より一層立場を難しくしたのだろうか。

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※高知御殿山にある二人の墓と立札