ホリショウのあれこれ文筆庫

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第303話 近衛文麿の最期

序文・戦犯の汚名は耐えがたし

                               堀口尚次

 

 近衛文麿は、五摂家近衛家の第30第当主であり、後陽成天皇の12世孫に当たる。貴族院議長・枢密院議長を歴任している。

 3度にわたり内閣総理大臣に任命され、第一次近衛内閣、第二次近衛内閣、第三次近衛内閣を組織した。その際に、外務大臣、拓務(たくむ)大臣〈植民地の統治事務・監督〉、農林大臣、司法大臣などを一時兼務した。第1次近衞内閣では、盧溝橋事件に端を発した日中戦争が発生し、北支派兵声明〈満州への派兵推進〉、近衛声明や東亜新秩序などで対応、戦時体制に向けた国家総動員法の施行などを行った。また、新体制運動を唱え大日本党の結党を試みるものの、この新党問題が拡大し総辞職した。その後も国内の全体主義独裁政党の確立を目指して第2次・第3次近衞内閣では自ら設立した大政翼賛会の総裁となり、外交政策では八紘一宇(はっこういちう)全世界を一つの家にすること大東和共栄圏建設を掲げて日独伊三国軍事同盟日ソ中立同盟を締結した。

 太平洋戦争中、吉田茂などとヨハンセングループ〈戦争終結工作グループ〉として昭和天皇に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えた。また、戦争末期には、独自の終戦工作も展開していた。太平洋戦争終結後、東久宮内閣にて国務大臣として入閣した。大日本帝国憲法改正に意欲を見せたものの、A級戦犯に指定され服毒自殺した。

 連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し近衛を逮捕するよう命令を発出。近衛は、逮捕命令の発表を軽井沢の山荘で聞いた。A級戦犯として起訴され裁判にかけられる可能性が高くなった。近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した。54歳2ヶ月での死去は、日本の総理大臣経験者では、もっとも若い没年齢である。また総理大臣経験者として、死因が自殺である人物も近衞が唯一である。

 自殺の前日に近衞は次男に遺書を口述筆記させ、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残した。この遺書は翌日にGHQにより没収された。

 近衛の政策は、日中戦争への加担や国家総動員法の施行など、第二次世界大戦への影響は大きい。彼の志を知っている人は、いったい誰なのだろうか。