ホリショウのあれこれ文筆庫

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第305話 春雨じゃ濡れて参ろう

序文・武市の志は、坂本龍馬から板垣退助へ。

                               堀口尚次

 

 これは、昔の映画や 新国劇月形半平太 』で、出てくる有名なせりふ。 実在の土佐藩士・武市瑞山(たけうちずいざん)〈通称 武市半平太〉が、三条の宿を出るときに、舞妓の雛菊(ひなぎく)が「月様、雨が……」と傘をさしかけてくる時に言う。

 武市瑞山は、幕末の志士、土佐藩郷士土佐勤王党の盟主。通称の武市半平太(はんぺいた)で呼ばれることも多い。

 優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政〈他藩の家老級〉・吉田東洋を暗殺して藩論を尊皇攘夷に転換させることに成功し、京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、前藩主・山内容堂によって投獄される。獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。

 切腹を命じられた半平太は体を清めて正装し、同日20時頃、南会所大広庭にて、未だ誰も為しえなかったとさえ言われてきた三文字割腹の法を用いて、法式通り腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から二名の介錯に心臓を突かせて絶命した。享年37。辞世の句は、『ふたゝびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり』であった。

 武市の死によって土佐勤王党は事実上壊滅した。中岡慎太郎ら一部の同志は見限って脱藩し、浪士となって討幕活動を進めた。後に中岡の仲介によって板垣退助西郷隆盛が薩土討幕の密約を結び、退助は土佐勤王党の志士らを釈放し、土佐藩薩長とともに討幕勢力の一翼を担うことになる。また、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が参政となり坂本龍馬と邂逅(かいこう)〈めぐり合う〉して大政奉還を主導したが、勤王の志士を再結集して戊辰戦争を戦い土佐藩兵を率いたのは武市と縁ある板垣退助であった。

 維新後、木戸孝允(たかよし)が山内容堂との酒席で酔った勢いで「殿はなぜ武市半平太を斬りました?」と詰めたが、彼は「藩令に従ったまでだ」と答えたきりだったと言われる。しかし、病に臥せた晩年の容堂は、武市を殺してしまったことを何度も悔いていたとされ、「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたとも伝えられる。冥土(めいど)の武市は、春雨に濡れているだろうか・・・。