ホリショウのあれこれ文筆庫

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第307話 上杉鷹山の妻子

序文・どもまでも謙虚な上杉鷹山

                               堀口尚次

 

 米沢藩9第藩主・上杉鷹山は、日向国〈現・宮崎県〉高鍋6代藩主秋月種美の次男で、母は筑前国秋月藩4代藩主黒田長貞の娘・春姫。母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘である。このことが縁で、10歳で米沢藩8代藩主・上杉重定〈綱憲の長男・吉憲の四男で、春姫の従兄弟にあたるの養子となる。

 正室重定の娘・幸姫(よしひめ)〈又従妹にあたる〉。側室のお豊の方〈綱憲の六男・勝延の娘で、重定や春姫の従妹にあたる〉との間に長男・顕孝と次男・寛之助〈満1歳半で夭折(ようせつ)=死亡〉の2人の子がいる。

 正室の幸姫は重定の次女同母の姉妹は夭折で、治憲の2歳年下であったが、脳障害、発育障害があったといわれている。彼女は明和6年に治憲と婚礼を挙げ、天明2年に30歳で死去するという短い生涯であった。治憲は江戸藩邸に側室を置かなかったうえ、幸姫を邪険にすることなく、女中たちに同情されながらも晩年まで雛遊びや玩具遊びの相手をし、ある意味2人は仲睦まじく暮らした。重定は娘の遺品を手にして初めてその状態を知り、不憫(ふびん)な娘への治憲の心遣いに涙したという。

 後継者が絶えることを恐れた重役たちの勧めで、明和7年に治憲より10歳年上で上杉家分家の姫であるお豊の方を側室に迎えた。お豊の方は歌道をたしなむなど教養が高く、治憲の改革を支えた賢婦として地元米沢に伝えられている。しかし、お豊の方との子である長男・顕孝と次男・寛之助は2人よりも早く死去し、お豊の方以外に側室を迎えることもなかったため、治憲の血筋は結局残らなかった。

 養子として当主になった者が養父の実子に家督を譲るのは順養子と呼ばれ、江戸時代ではさして珍しいことではない。しかし、治憲があえて35歳で隠居し、家督を治広〈重定の次男〉に譲ったのは、重定が存命中に家督を継がせることで重定を安心させたいという鷹山の心遣いだったとされる。なお、治広には同母兄の上杉勝熙(かつひろ)がいたが、それを差し置いての後継指名であった。

 正室に先立たれ、側室を一人しか持たなかった上杉鷹山の血は途絶えた。