ホリショウのあれこれ文筆庫

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第315話 「ごんぎつね」の新美南吉

序文・ごん、お前だったのか・・・

                               堀口尚次

 

 新美南吉は、大正2年生まれの児童文学作家。本名は新美正八〈旧姓:渡邊〉。愛知県半田市出身。半田第二尋常小学校卒業。成績優秀で「知多郡長賞」「第一等賞」を授与される。卒業式では卒業生代表として答辞を呼んだが、この答辞は教師の手を入れず、南吉一人で書き上げたものだった。その後、南吉は旧制愛知県立半田中学校〈現・愛知県立半田高等学校〉に入学する。南吉は父親に進学を反対されたことを終生忘れず、のちに巽聖歌(たつみせいか)〈児童文学者・北原白秋の愛弟子〉に「家は貧乏、父親は吝嗇(りんしょく)〈けち〉、継母は自分をいじめる」と生い立ちを語っている。

 母校の半田第二尋常小学校の代用教員として採用される。『赤い鳥』5月号に南吉の童謡『窓』が掲載される。主催者の北原白秋を尊敬する南吉は喜び、教員生活の傍ら創作、投稿を続ける。その後、中等教員免状を取得すると、安城高等女学校教諭心得の辞令が出る。中山ちゑと交際するが、ちゑが体調を崩し、急死。南吉は葬儀で男泣きに泣き、その後1か月は腑抜けのような状態だった。

 地方で教師を務め、クラシック音楽を好み、独身のまま若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治との比較で語られることも多い。賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、「北の賢治、南の南吉」と呼ばれ好対照をなしている。

 作品の多くは、故郷である半田市岩滑新田(やなべしんでん)を舞台としたものであり、有名な「ごんぎつね」も岩滑地区の矢勝川や、隣の阿久比町にある権現山を舞台に書かれたといわれている。筆者が村の老人から聞いた話という体裁をとっており、「城」や「お殿様」、「お歯黒」という言葉が出てくることから、江戸時代から明治ごろが舞台となっている。

 この物語を南吉が執筆したのは昭和5年、わずか17歳の時であった。この物語は、彼が幼少のころに聞かされた口伝(くでん)を基に創作された。南吉は4歳で母を亡くしており、孤独で悪戯好きな狐の話が深く影響を与えたとされている。

 そして「ごんぎつね」は、小学校国語教科書の教材の定番ともいえる作品となった。知多半島中腹に位置する岩滑地区には、今でもキツネが生息している。