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第324話 池田輝政の居城

序文・木田城から姫路城まで

                               堀口尚次

 

 池田輝政は永禄7年、織田信長重臣池田恒興の次男として尾張国清州で生まれる。

 筆者の地元である愛知県東海市大田町城山にあったとされる木田城は、一色左馬之助、荒尾空善〈現在隣町を荒尾町という〉、池田輝政が居城した城だ。木田城は鎌倉時代末期に、この地の有力者だった一色左馬之助が築き居城したことが始まりとされている。そして戦国時代には、知多半島西北部にあった荒尾七ヶ村の地頭で、鎌倉幕府室町幕府の奉公衆を務めた荒尾氏が入城した。荒尾氏は織田信長に味方して、天文二十三年の村木砦攻め、天文二十四年の寺本城攻めにも参加し、この地での勢力を強めていく。しかし空善には嫡子が無く、大野城〈現在の知多半島常滑市〉の佐治氏から善次を婿養子に迎えるが、善次の息子・善久〈池田輝政の母方の伯父にあたる〉は元亀三年の三方ヶ原合戦で討ち死にする。すると善次は池田恒興の次男・古新丸〈後の池田輝政〉を養子に迎え、木田城主にする。その後、天正十二年の小牧長久手合戦で池田恒興と長男・元助が長久手で討ち死にすると、輝政は池田家を継ぐことになり、木田城は城主も居なくなり廃城になった。

 輝政は、天正11年に、美濃国安八郡〈現岐阜県大垣市〉の池尻城主となり、天正12年、小牧・長久手の戦いにおいて、父の恒興と兄の元助が討死したため、家督を相続し、美濃大垣城主13万石を領した。翌年同じ13万石で岐阜城主となった。その後天正18年には、三河国の内、渥美・宝飯・八名・設楽4郡〈東三河〉において15万2,000石に加増され、三河国渥美郡〈現愛知県豊橋市吉田城主となった。

 関ケ原の戦い後、岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に加増移封され、初代姫路藩主となった。ここに輝政は国持大名としての政治的地位を獲得したのであり、その知行方は当時でも八番目に高いものであった。12月には従四位下・右近衛権少将に叙任された。関ヶ原合戦以後における徳川氏一門以外の大名における少将以上の任官は、前年3月における福島正則に次いでのものであり、初期徳川政権における両者の政治的役割の高さを示すものである。慶長6年から慶長14年にかけて、姫路城〈現兵庫県姫路市〉を大規模に改修する。別名白鷺城とも呼ばれ国宝・重要文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。