ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第332話 堀直虎の義

序文・諫死という選択

                               堀口尚次

 

 堀直虎は、江戸時代末期〈幕末〉の大名。信濃須坂藩の第13代藩主。信濃須坂家13代。1万石の小藩であり、しかも外様大名でありながら譜代大名に準ずる待遇を求めたが受け入れられなかった。しかしながら直虎は、家老ら41人を粛清〈家老など4人切腹、永暇・藩籍除外30余人〉し藩政を大きく改革し、洋式軍制を導入する。幕政にあっては、維新の中にあり大番頭などを経て若年寄兼外国総奉行に任じられている。旗本でも譜代大名でもない外様大名が、幕府役職に就くことは異例であったと言えよう。

 鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に逃げ帰った将軍・徳川慶喜に対して、直虎は懇願した。「上様、かくなるうえは上様はじめ幕閣みな腹切ってあい果てましょうぞ。さすれば無念で屈辱的な恭順でもなく、無謀な抗戦にもなりませぬ。よってこの直虎、本日は死装束にて登城つかまつりました」慶喜はあきれたのか、おどろいたのか席を立ってしまった。将軍に死を迫り拒まれた直虎はこのままではすまない。覚悟の「諫死(かんし)〈死んで諫(いさ)める〉」の道を選んだのだ。直虎の亡骸が屋敷に運ばれてきたとき、迎えた母は、「よくぞ死んでくれました」と涙したという。

 こうして江戸城での大評定〈諸侯会議〉の席上、慶喜を叱責し、そのうえで「武士の責任の取り方を教えましょう」と、その日のうちに江戸城内で切腹した。幕末に、将軍の責任〈大政奉還〉を問い、江戸城内で自刃して果てた大名は直虎だけである。直虎の死から56年後の大正13年宮内省から直虎に「従四位」が贈られ、朝廷に対する忠節が顕彰された。但し、直虎の自害理由に関しては諸説〈恭順説・抗戦説・病気説等〉ある。

 幼児期・少年期の直虎は、多くの師匠に付いて四書五経から書道・武道・絵画まで学んだ。特に儒教の教え「五常の徳〈仁・義・礼・智・信〉」に興味を持ち、中でも「義」を尊ぶようになっていた

 尚、アメリカのハーバード大学で日本史教室を担当するデーヴィッド・パウエル教授が最も興味があって学生たちにも教えている幕末期の人物が大名・堀直虎だという。教授は、若くてダイナミックなリーダーであり、西洋に心酔しながら武士としての責任を全うして生きたという「新しさと伝統が共存している」ことに魅了されているという。