堀口尚次
4月22日に、愛知県豊橋市の豊橋鉄道の市電に乗りに行ってきた。その時に吉田城址へ立ち寄った。池田輝政の居城としても知られ、幕藩体制の下で吉田城に三河吉田藩の藩庁が置かれた。江戸幕府の老中・大坂城代・京都所司代格など有能な譜代大名が城主に選ばれ出世城などと呼ばれていた。
5月20日には、愛知県渥美半島を走る豊橋鉄道の渥美線に乗ってきた。その時に終点・三河田原駅の近辺のお寺や神社を散策し、田原城址や渡辺崋山〈田原藩家老・蛮社の獄で自害〉の崋山神社なども探索してきた。
豊橋鉄道株式会社は、愛知県豊橋市および田原市において鉄道・軌道を運営する鉄道事業者。名古屋鉄道〈名鉄〉の連結子会社である。その歴史は、
大正14年 市内線〈軌道・市電〉が開業。
大正13年 渥美電鉄が高師 - 豊島間を開業。
昭和29年 豊橋鉄道株式会社に社名変更。名古屋鉄道から渥美線の新豊橋 - 三河田原間を譲り受ける。』
となっているが、計画としては、渥美電鉄が渥美半島のほぼ先端まで、鉄道省が渥美半島最先端の伊良湖岬までの2路線があったようだ。三河田原駅移転前の車止めモニュメントの説明文には『大正12~昭和2年に渥美電鉄によって設敷された渥美線〈その後、名古屋鉄道、豊橋鉄道と引き継がれる〉は、三河田原駅から2.8km離れた黒川原駅まで続いていた。さらに渥美半島西部の中心地・福江まで延伸する予定だったが、資金難等で着工できなかった。昭和9年には旧鉄道省〈国〉によって半島先端部まで鉄道設敷をすることが決まった。これは当時あった陸軍伊良湖試験場に物資輸送をしたい陸軍の意向があったといわれる。同区間は実際にある程度工事が進んだものの、太平洋戦争の激化により中止となった。また、三河田原から黒川原までの路線は昭和19年に休止、のち廃止となった。』と書かれていた。
こうして私は、豊橋鉄道の市電の全線と渥美線の全線を制覇することができた。近隣の吉田城址や田原城址を見学し、歴史の一端を垣間見たのだった。