ホリショウのあれこれ文筆庫

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第337話 弁慶の立往生

序文・元は比叡山の僧侶

                               堀口尚次

 

 武蔵坊弁慶は、平安時代末期の僧衆〈僧兵〉。源義経の郎党。

義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは、義経に仕える怪力無双の荒法師として名高く、ほか創作の世界でも義経と並んで主役格の人気があり、怪力の者や豪傑の代名詞としても広く用いられている。

 鬼若〈弁慶の若いころの名〉は比叡山に入れられるが勉学をせず、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。鬼若は自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗る。その後、四国から播磨国へ行くが、そこでも狼藉を繰り返して、播磨の圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。

 やがて、弁慶は京で千本の太刀を奪おうと心に誓う。弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本というところで、五条大橋で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。弁慶は義経が腰に佩(お)びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。弁慶は降参してそれ以来義経の家来となった。

 源頼朝と不仲になり、追われた義経一行は、奥州平泉にたどり着き、藤原秀衡のもとへ身を寄せる。だが秀衡が死ぬと、子の藤原泰衡は頼朝による再三の圧力に屈し父の遺言を破り、義経主従を衣川館(ころもがわのたて)に襲った。多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命し、その最期は「弁慶の立往生」と後世に語り継がれた。

 「立往生」とは「その場に止まったり途中で行き詰まったりしたまま、処置のしようもなく、動きのとれないこと。」として使われるが、本来の意味は「立ったまま死ぬ〈往生する〉こと」である。

 ちなみに「弁慶の泣き所とは、弁慶ほどの豪傑でもここを打てば涙を流すほど痛いとされる急所のこと。最もよく知られているのが脛(すね)である。