序文・先人が築いた近代農業用水
堀口尚次
大規模な漏水で問題となっている明治用水は、西三河地方南西部に農業用、工業用の水を供給する用水である。幕末・明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代農業用水だったため、明治という元号を冠するエポックメイキングな命名がされた。大正時代には、農業王国として、中原に位置する安城市が「日本のデンマーク」と称して教科書に掲載されるほど、画期的な成功を収めた。安城ヶ原の開発により、10万石以上の収量となった〈当時、岡崎藩が5万石〉。埼玉・東京の葛西用水路・見沼代用水とならび、日本三大農業用水と称されている。
碧海台地〈愛知県西三河地区に広がる〉に矢作川の水を引いて新田開発を行う計画は、江戸時代文化・文政期に碧海郡和泉村〈現:安城市〉の豪農である都築弥厚の発案である。都築は、数学者の石川喜平とともに文政五年に用水路の測量に着手し、農民の抵抗に遭いながらも、三年後に測量を完了させた。翌年には開墾計画を『三河国碧海郡新開一件願書』にまとめ、幕府勘定奉行に提出した。願書によると、碧海台地が原野のままである理由は用水がないためであるとし、越戸村〈現:豊田市〉で矢作川の水を分水し、台地上に水路を建設するといった計画であった。天保三年には幕府は都築の計画を許可したが、都築は同年に病没した。
都築の死後には地元の反対もあり、用水の建設計画は頓挫していた。一方、岡崎の庄屋である伊豫田与太郎や都築家が所有していた石井新田の開拓農民であった岡本兵松らの計画の提出を受けた愛知県庁関係者の働きかけにより、両者の計画は合併することになり、伊豫田・岡本は明治八年に愛知県令に用水路掘割溜池不毛地開拓再願書を提出した。地元農民の中には反対する者が多かったが、説得に当たった岡本は「工事ができあがれば、恨む村は三か村、喜ぶ村は数十か村、なにほどのこともない」と述べたといわれる。明治十二年に本流の工事が開始され、明治十三年には完成式典が挙行され明治用水と命名された。
安城市東栄町には明治十八年に建立された明治川神社があり、都築弥厚、石川喜平、伊豫田与八郎、岡本兵松という明治用水建設の功労者4人が祀られている。豊田市水源町の水源公園には水源神社があり、関係者が祀られている。
※安城市弥厚公園にある都築弥厚像