ホリショウのあれこれ文筆庫

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第348話 朔平門外の変

序文・天皇のお膝元での事件

                               堀口尚次

 

 幕末の桜田門外の変大老井伊直弼暗殺〉や坂下門外の変〈老中・安藤信正襲撃〉はいずれも江戸城の門外で起きた事件で有名だが、朔平(さくへい)門外の変は、京都御所の門外で起きた公家暗殺事件である。

 破約攘夷を唱える公家の指導者であった姉小路公知(あねがこうじきんとも)〈右近衛少将、国事参政〉が、禁裏朔平門外の猿が辻で暗殺された事件。現場に残された太刀から薩摩藩田中新兵衛に容疑がかかったが、京都奉行所に監禁された新兵衛は釈明せずに自刃したため、暗殺者は今なお不明。

 幕末において要職にある殿上人(てんじょうびと)〈公家の幹部〉が暗殺された事件は空前絶後であり、当時の中央政局に大きな影響を与え、同年の八月十八日の政変尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除が起きるきっかけにもなった。

 この事件が起きる以前にも、治安の弛緩や政局の激化に伴い江戸では桜田門外の変坂下門外の変といった政治的テロ事件が続発、また京都では「天誅(てんちゅう)」と称する要人襲撃事件が相次いでいた。しかし被害者の多くが幕府関係者ないし親幕府派と見られた公家の諸大夫等の家臣・武士・地下人(じげにん)・学者・庶民であり、加害者側が破約攘夷派と思われるのに対し、朔平門外の変の場合、被害者の姉小路が殿上人であり、さらに当時の破約攘夷派の代表的存在であった点はきわめて異例であった。

 この時期の政治状況は、しばしば「尊王攘夷派」と「公武合体派」との対立構造で語られることが多いが、実際には「尊王」対「佐幕」や「攘夷」対「開国」などと単純に対極化できる性質のものではなかった。いわゆる尊王自体は朝廷からの政権委任を支配の正当性とする幕府にとっても尊重すべき概念であり、国防意識という意味においての攘夷概念は、当時の主要な政治勢力のいずれもが持っていた大前提であった。

 当時の主要な政治勢力はいずれも「攘夷」をいかにすすめるかを最大の大義名分としており、天皇は最大の大義名分を持つ対象の意味で「玉(ぎょく)」と呼ばれ、対立の激化の原因にもなっていた。孝明天皇自身は通商条約を容認しない攘夷論者であったが、即刻外国船を打ち払うほど過激ではなく、内政に関しては大政委任論〈将軍は天皇より大政〈国政〉を委任されてその職任として日本国を統治している〉をもって幕府の統治を強く支持していた。