ホリショウのあれこれ文筆庫

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第351話 誓いの御柱と明治天皇駐蹕御趾

序文・明治天皇と愛知県半田市の御縁

                               堀口尚次

 

 誓の御柱(みはしら)は五か条の御誓文を象徴する記念碑である。五角形の尖塔(せんとう)の各面に御誓文の各条文を刻む。大正15年〈昭和元年〉から昭和9年までの間に少なくとも7か所で建設された。そのうち現存を確認できるのは、琵琶湖の多景島、愛知県立半田高等学校、同県半田市乙川白山公園秋田県男鹿市寒風山、三重県四日市市諏訪公園の5か所である。日本国内に数基しか存在しない希少なものである。

 東京帝国大学教授筧克彦の教え子で内務官僚であった水上七郎が大正10年に発案した。琵琶湖の多景島で最初の一基を建設した。同年に水上七郎が病死した後は、友人の二荒芳徳や渡邊八郎、恩師の筧克彦らが建設運動を受け継いだ。明治天皇維新の始めに天地神明に誓った五箇条を、国民が繰り返し唱えるべき標語に読み替え、それを象徴する国民的記念碑を建てようとする運動であった。

 大正9年代は、大正天皇の病気が深刻化し、また国内にデモクラシーや社会主義の思想が広まり、従来の統治方法が通用しなくなる危機の時代であった。危機を乗り越えるため、筧克彦とその門下は五箇条の御誓文を標語として掲げ直し、その標語を用いた象徴的記念碑を国民の手で作り上げることを試みた。その実践が誓の御柱の建立であった。

 明治天皇駐蹕御趾(ちゅうひつぎょし)は、愛知県半田市乙川源内林町の白山公園内に建てられた石碑である。明治23年明治天皇が第1回陸海軍大演習のため、この地から統監した。これを記念して明治35年に村民有志の手で建立されたものである。

 碑銘は、江戸城無血開城の立役者で、明治政府の枢密顧問官をしていた勝海舟の揮毫(きごう)〈毛筆の文字〉によるものである。乙川白山公園は、春の花見シーズンともなると、多くの人が訪れる。しかし、公園内に建立されている石碑に目を止める人は少ない。公園最奥部中央に佇立(ちょりつ)する〈たたずむ〉通称『誓いの御柱』は、その大きさの故に存在感があり、地元の住民でその碑があることを知らない人はいないであろうが、『誓いの御柱』の他にも石碑があることを知る人は意外に少ない。ましてやそれらの石碑の建立の目的や経緯を知る人は稀有である。私は過日ここを訪れ、激動の明治・大正・昭和を体感してきた。