ホリショウのあれこれ文筆庫

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第357話 「唐人お吉」こと斎藤きち

序文・内海海岸の残る一説

                               堀口尚次

 

 斎藤きち、 天保12年 ~明治23年は、幕末から明治期にかけての芸妓(げいこ)、酌婦、髪結、小料理屋店主。俗に唐人お吉の名で知られる。伊豆国賀茂郡下田の坂下町〈現在の静岡県下田市〉で出生といわれるが、一説には尾張国知多郡西端町〈現在の愛知県南知多町内海〉ともいわれている。

 斎藤きちの存在は、昭和3年に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。

 元来とくに身分が高い訳でもない一民間人にすぎなかった斎藤きちの経歴については、出生地を含め諸説あり、資料が少ない上に、後年の小説戯曲映画等で表現されたことさらに薄幸で悲劇的なフィクションの世界の「唐人お吉」像が、忠臣蔵八百屋お七の例にみられるようにさながら史実のごとく語られてしまっている可能性が高く、伝わる経歴の正誤を一概に断定する事は困難である。

 なお、当人の名前がフィクションの影響で「お吉」と表記されることが多いが、江戸期の下田奉行所の記録や町会所日記、明治期の戸籍上の当人の名前表記は平仮名で「きち」である。

 幕末、玉泉寺に駐留していたアメリカ合衆国駐日領事タウンゼント・ハリスは、長期間の船旅や遅々として進まない日本側との条約締結交渉のストレスも相まって体重が約18kgも落ちてしまい、吐血するほどに体調を崩していた。満52歳と当時としては高齢でもあり、ハリスの秘書兼通訳であるヘンリー・ヒュースケンが下田奉行所に看護人の派遣を要求した。日本側は男性の看護人を派遣することにしたが、ヒュースケンが自分とハリスにそれぞれ女性の看護人を派遣することを強硬に要求したことから、下田奉行所はハリス側はいわゆる「妾」を要求しているものと判断し、方々に交渉した結果、ハリスに「きち」を、ヒュースケンに「ふく」を派遣することになった。

 その後「きち」は解雇されるが、後の人生を、外国人の「妾」という偏見の中で生きることになる。そんなお吉の哀しい生涯をまとめたものが「唐人お吉」として、人々の機微に触れたのだろうか。唐人とは本来中国人をさすが、お吉の場合は外国人〈外国人の妾〉という意味合いで使われたものと推測する。