ホリショウのあれこれ文筆庫

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第361話 名古屋に伝わる宮本武蔵

序文・武蔵は通称、諱は玄信。

                               堀口尚次

 

 宮本武蔵は、江戸時代初期の剣術家、大名家に仕えた兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名である。

 名古屋には、「宮本武蔵の碑」なるものが、二カ所に伝承されている。

 名古屋市昭和区の新福寺〈半蔵坊〉にある教育委員会が設置した立札には以下のように記されていた。

『武蔵の碑は、ここ新福寺と南区笠覆寺笠寺観音〉の二カ所にあるが、当寺のものは「新免政名供養碑」と呼ばれ、寛政五年〈1793〉円明流を伝えた左右田邦俊五代の門弟市川長之がその門人と共に、武蔵百四十九年忌の法要を営んだときに建てたものである。正面に「新免政名之碑」とあり側面に燈外和尚が武蔵の履歴などを記し、末に三言二十句の銘を付している。碑に刻まれた文章は漢文で書かれているため解読することが非常に難しい。』

 名古屋市南区のホームページには以下の説明文があった。

二天一流兵法の祖として有名な剣豪・宮本武蔵は、播磨国(今の兵庫県)に生まれ、各地を回りながら修行を重ねたと言われていますが、その足跡をたどると、尾張城下、現在の南区に滞在していたこともあるようです。武蔵は、南区笠寺にある東光院を宿坊にしていたと伝えられています。また、笠覆寺(笠寺観音)には、武蔵の弟子によって建立された顕彰碑があります。宮本武蔵尾張を訪れた時期は、巌流島の決闘から10年以上が過ぎた寛永7年(1630年)以降だと言われており、滞在期間は、数ヶ月とも数年とも言われています。当初、武蔵は将軍家の兵法指南役を目指していましたが、将軍家には既に柳生宗矩が仕えていたこともあって志を果たせず、それなら尾張徳川家の兵法指南役を目指そうと決め、尾張を訪れました。東光院に滞在したのはこの頃のことで、一説には、東海道沿いを鳴海から笠寺に来る途中で何者かの闇討ちに遭い、東光院に身を寄せることになった、とも言われています。』

 私は過日上記の二カ所を訪ね、剣豪の縁(えにし)を体感してきた。