ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第364話 ミスコン廃止に思う

序文・臭いものに蓋をする文化

                               堀口尚次

 

 過日テレビのニュース番組で「ミスコン廃止」に関する話題を取り上げていた。視聴する中で、若干の違和感を持ったので筆を執った。

 ルッキズムとは「looks〈外見、容姿〉+ism〈主義〉」すなわち外見至上主義外見によって人物の価値をはかることをいい、「容姿の良い人物を高く評価する」「容姿が魅力的でないと判断した人物を雑に扱う」など、外見に基づく蔑視を意味する場合もある。

 外見や見た目の良し悪しといった視覚的情報によってその対象〈自分自身を含む〉を価値づける行為は、人類の「美」や「道徳」に対する価値観に迫るものであり、これまで数々の議論がなされ、否定あるいは容認されてきた。また外見的魅力の高低が評価や社会的行動にさまざまな影響を及ぼすことは、これまで様々な研究により指摘されてきた。

  しかしちょっとまてよ、「外見によって人物の価値をはかること」が悪いことだという普遍的な価値観は誰が植え付けたのだろうか。勿論、外見によって人物の価値をはかることは、人として卑劣な行為であることは自明の理だ。但し、そのことを標榜している「ミスコン」の場合は、主催する方も、出る方も、見る方も了解済みではないのか。コンテストで優勝した人が、人間的に素晴らしい人格者でもなければ、特に優れた人間でないことは了承済なのではないか。

『あえて外見だけによって人物の価値に優劣を付けるコンテスト』があってもいいじゃないか。そんなこと言い出したら、スポーツだって記録〈外見〉で人物の価値をはかっていることは同じである。

 人に優劣をつけてきたことが、人類の歴史だと思う。問題は、どういう判断基準で優劣をつけているかを、見極めなければならないということだと思う。差別や偏見なども、この判断基準が曖昧になって生まれた経緯が否めない。文化や長い歴史のなかで育まれた側面もあろうが、『私より貴方のが劣っている』という普遍的な思考は歴然と存在すると思う。

 誤解を恐れずに筆を進めるが、マスメディアが差別用語を禁止したのは、道徳的な倫理観からではなく、外圧に対する自主規制に他ならないと思う。隠匿された言葉は巷(ちまた)で闊歩しているのだ。主催者は、問題点は隠匿するのではなく、公然と明らかにし、コンテスト運用の趣旨を啓蒙する義務があると思った。