ホリショウのあれこれ文筆庫

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第374話 命をいただくということ

序文・「いただきます」の本来の意味

                               堀口尚次

 

 テレビで「ある牛飼いの日々」というドキュメンタリー番組を観た。父や祖父の代から続く畜産を受け継いだ男性の暮らしを追っていたが、餌の配合・牛舎の清掃・体調不良の牛の治療・種付け・牛の種類などあらゆる分野において拘(こだわ)りをもって牛に接している男性の姿勢は尊敬に値(あたい)するものだった。そのままでは産業廃棄物になってしまう牛糞がまざったオガクズを、堆肥に変えて、地元の米農家の田んぼにまき、それで育った稲を牛の餌にするという循環型農業も実践していた。

 男性は「命をいただくということ」に拘っているように思えた。肉牛の畜産という立場にありながら、牛だけではなく、あらゆる動物の命をいただいて生きているのが人間であり、動物どころか、命をいただくという意味では植物でさえ同じだと男性は言う。

 番組では、数年前に世の中がBSE問題で揺れている時の、畜産業界の苦悩も取り上げていた。男性自身の牧場経営も破綻寸前に陥(おちい)り、想像を絶する葛藤があったようだった。しかし根底には、祖父から続いてきた畜産業を自分の代で終わらせてしまっていいのかという矜持みたいなものを感じた。

 番組は10年以上前にも男性の畜産業を取り上げており、当時小学生だった娘や姪(めい)が、大学生や高校生に育った今も取り上げていた。彼女らは、父親もしくは叔父さんの仕事を傍(かたわ)らで見て育ち、命をいただくことの重要さを学んでいた。

 ある日男性は、獣医になって父親を手助けしたいという大学生の娘を牛肉加工会社へ連れて行った。屠殺(とさつ)の現実は避けて通れない道であり、ましてや手塩にかけて育ててきた牛である。加工会社の社長さんが「牛は捨てるところがないんです。肉は勿論のこと、骨や皮まですべて使います。それでこそ牛に感謝ができるんです」と言っていたのが印象的だった。

 男性は肉牛の子牛を仕入れて、大きく育てて出荷する生業(なりわい)だが、それまで殺処分されてきたという、乳を出さない雄の乳牛や和牛でない種類の牛の飼育も行っている。今まで他の同業者がやらなかったということは、生産効率が低く今ままでにない苦労が付きまとうからなのだろう。そこをあえてこの男性が行う意義はなんなのだろう。多分そこには「命をいただくということ」への拘りがあるのだと思った。願わくば、食卓にあがる牛肉にその想いが届きます様に。