ホリショウのあれこれ文筆庫

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第392話 新田義貞の神通力

序文・神仏の御加護があったのか

                               堀口尚次

 

 新田義貞(よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人(ごけにん)・武将。姓名は(みなもと)義貞河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。官位は正四位下(しょうしいのげ)、左近衛(さこんえ)中将。建武の元勲の1人。

 上野国新田荘の御家人であったが、元弘の乱では後醍醐天皇に呼応して、足利高氏の名代・足利千寿王〈後の足利義詮(よしあきら)=尊氏の三男〉を総大将とする鎌倉討伐軍に参加する。義貞の軍はいち早く鎌倉に侵攻し、東勝寺合戦鎌倉幕府北条得宗家〈本家〉の本隊を滅ぼすという軍功を立てた。

 後醍醐天皇による建武の新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武の新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏と後醍醐天皇との間で建武の乱が発生すると、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命される。各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒吉親王尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。軍記物語『太平記』等でその活躍が描かれ、楠木正成に次ぐ南朝の武将として顕彰された。

 鎌倉攻めの際、義貞自ら稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたが、当時の波打ち際は切り立った崖となっており、石が高く、道が狭小なため軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。そこで、義貞が潮が引くのを念じて剣を投じると、その後潮が引いて干潟となったので岬の南から鎌倉に攻め入ったというが、現在では稲村ヶ崎突破については、干潮を利用して進軍したという認識が広く浸透している。太平記』では、義貞が黄金作りの太刀を海に投じた所、龍神が呼応して潮が引く『奇蹟』が起こったという話が挿入されている。『梅松論』も、義貞の太刀投げにこそ言及していないが、同様に『奇蹟』が起こった事を記述している。龍神が潮を引かせた、という話は脚色とみなされているが、義貞の徒渉(としょう)〈歩いて渡る〉とそれに付随した伝説には、様々な解釈がある。

 新田義貞の死から500年以上のち、明治維新の後、義貞らおよびその他南朝側の諸将は朝廷のために尽し続けた「忠臣」「英雄」として再評価された。

※現在の稲村ケ崎