序文・立場と運命
堀口尚次
武田耕雲斎(こううんさい)は、幕末の武士。水戸藩の天狗党の首領。名は正生。通称は彦九郎。号は如雲。位階は贈正四位。官位は伊賀守。松原神社〈敦賀市〉の祭神。靖国神社合祀。
徳川斉昭の藩主擁立に尽力した功績などから、天保11年には参政〈藩幹部〉に任じられ、水戸藩の藩政に参与した。しかし弘化元年、斉昭が幕府から隠居謹慎処分を命じられると、これに猛反対したため、耕雲斎も連座で謹慎となった。嘉永2年、斉昭の復帰に伴って再び藩政に参与し、安政3年には執政〈家老級〉に任じられた。そして、斉昭の尊皇攘夷運動を支持し、斉昭の藩政を支えた。
しかし万延元年、斉昭が病死すると水戸藩内は混乱を極め、耕雲斎も藩政から遠ざけられた。耕雲斎は斉昭死後の混乱を収拾しようと各派閥の調整に当たったが、混乱は収まらなかったばかりか、元治元年には藤田小四郎〈藤田東湖の四男〉が天狗党を率いて挙兵してしまう。耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諌めたが、小四郎は斉昭時代の功臣である耕雲斎に天狗党の首領になってくれるように要請する。耕雲斎は初め拒絶していたが、小四郎の熱望に負けて止む無く首領となった。
天狗党は、斉昭の子で当時は京都にいた徳川慶喜を新たな水戸藩主に据えることを目的としていた。そして、800名の将兵を率いて中山道を進軍したが、敦賀で幕府軍の追討を受けて降伏した。降伏すると、簡単な取調べを受けた後、耕雲斎は小四郎と共に斬首された。享年63。その後、妻・妾・幼児を含む2人の子・少女や幼児を含む4人の孫も水戸で斬首刑となった。耕雲斎は斉昭の影響を強く受けた尊皇攘夷派であったが、過激な攘夷には消極的だった。天狗党の首領とされた時、彼は既に死を覚悟していたらしい。辞世の句「咲く梅の 花ははかなく 散るとても 馨(かお)りは君が 袖にうつらん 」
徳川斉昭の意思を継いだ武田耕雲斎は、尊皇攘夷を正しい方向で達成しようと考えていた。この辞世はもしかしたら徳川慶喜に宛てたものかも知れない。しかし天狗党の首領とし斬首されたが、その強い意思は慶喜に届かなかった。
武田耕雲斎も徳川慶喜も、それぞれの立場を懸命に生きたのだと思いたい。