ホリショウのあれこれ文筆庫

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第397話 松井陸軍大将の信念

序文・責任の取り方

                               堀口尚次

 

 松井石根(いわね)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。「日支提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東軍事裁判東京裁判〉にて死刑判決〈B級戦犯〉を受け、処刑された。

 松井は南京攻略を前に「南京錠攻略要領略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含むを兵士に示した。日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まり、南京陥落。松井が南京入城。このとき、松井は一部の兵士によって掠奪(りゃくだつ)行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮(けいぶ)の思想を念を押すようにして戒めた。後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している。

 昭和13年1月16日近衛文麿首相の「蔣介石を対手とせず」宣言ですべては終わった。松井は軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった。

 昭和13年3月に帰国。静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、今回の日中両兵士の犠牲は、アジアのほとんどの欧米諸国植民地がいずれ独立するための犠牲であると位置づけ、その供養について考えていた。滞在先の宿の主人に相談し、昭和15年2月、日中戦争支那事変)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた

 松井は巣鴨プリズンに収容される前夜、近親者たちを招いて宴を催し、盃を交わしながら「乃公(だいこう)〈私〉はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないなぁ」と語った。翌5日出頭。収監されてからも毎朝、観音経をあげるのが習慣だった。 辞世の句「世の人に のこさばやと思ふ 言の葉は 自他平等に誠の心」。人の依頼に応じて揮毫する文字は決まって「殺身為仁」※意味・自分の命を犠牲にしても仁道のために努力する。