ホリショウのあれこれ文筆庫

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第398話 日本軍によるアッツ島の占領

序文・アメリカ本土の占領

                               堀口尚次

 

 日本軍によるアッツ島の占領は、太平洋戦争中のアリューシャン方面の戦いにおけるAL作戦の一環として、日本軍により占領された。アメリカ合衆国本土が外国軍隊により占領されたのは1812年米英戦争以来初めてのことであった

 アメリカ領土でアラスカの一部であるアリューシャン列島は、日本海軍が開戦時に策定した連合艦隊作戦計画では「占領または攻撃破壊すべき外郭要地」と決められたが、具体的な計画は無い状態だった。しかし、アメリカ軍の北方からの進攻や当時開発中との情報があった日本本土を爆撃可能な新型長距離爆撃機の発進基地となることを恐れ、また同時期に進行していたミッドウェー作戦の支援も兼ねて、海軍軍令部が陸軍と共同してAL作戦を計画、アリューシャン方面に進出した。これによりアリューシャン列島での戦いが始まった。

 1942年、穂積陸軍少佐指揮のもと1150名がアッツ島に上陸して占領、翌日にキスカ島も細萱海軍中将指揮の下、1300名が上陸して占領した。両島ともアメリカ軍の守備兵力は存在せず無抵抗で占領された。アッツ島には先住民のアリュート族45名、無線技士で同地から気象通報していたアメリカ人のチャールズ・フォスター・ジョーンズとその妻で教師兼看護婦のエッタがおり、チチャゴフ港周辺の集落で暮らしていた。日本軍の占領直後、抵抗した無線技師のチャールズが殺害された。残ったアリュート族住民はアッツ島一時放棄の際に北海道の小樽近くの収容所へ連行され、終戦まで抑留された。

 その後アメリカ軍の奪還攻撃により、山崎大佐率いる日本軍の残存兵力約300名が最後のバンザイ攻撃を行い、組織的抵抗は終了した。アメリカ軍は降伏を勧告したが「玉砕」した。なおこの突撃中、山崎部隊長は終始、陣頭で指揮を執っていた事が両軍によって確認されている。米軍のある中尉は「右手に軍刀、左手に国旗を持っていた」という証言を残している。

 アッツ守備隊玉砕の報告は昭和天皇に伝えられた。昭和天皇は、上奏をした杉山元参謀総長へ「最後まで良くやった。このことをアッツ島守備隊へ伝えよ」と命令した「守備隊は全員玉砕したため、打電しても受け手が居りません」と言った杉山に昭和天皇は「それでも良いから電波を出してやれ」と言われたという。現在アッツ島には、日本人によって建てられた記念碑が五つある。