ホリショウのあれこれ文筆庫

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第410話 今川義元のイメージ

序文・麻呂でおじゃる?

                               堀口尚次

 

 今川義元(よしもと)は、戦国時代の駿河国および遠江(とおとうみ)国の守護大名戦国大名。今川氏第11代当主で姉妹との婚姻関係により、武田信玄北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。姓名は源義元

寄親(よせおや)・寄子(よせこ)〈主従関係〉制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河遠江から、三河尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川氏の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦い織田信長軍に敗れて毛利良勝に討ち取られた。 

 公家文化に精通し、京都公家僧侶と交流して、京都の流行を取り入れて都を逃れた公家たちを保護した。山口の大内氏一乗谷の朝倉氏と並ぶ戦国三大文化を築いた。さらには自らも公家のようにお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていたことから、貴族趣味に溺れた人物とされることもある。しかし公家のような化粧をした話は後世の創作であるという説もある。また、たとえ事実であったとしてもそれは武家では守護大名以上にのみ許される家格の高さを示すことこそあれ、軟弱さの象徴とは言い難い。武士が戦場に向かう際に化粧をしていくことは、珍しくないばかりか嗜(たしな)みの一つであったという説すらある

 実際のところ、騎乗せず輿(こし)に乗っていたことは、義元は今川家は足利氏の庶流として室町二十一屋形と称された屋形号を有していることから特別に輿に乗ることを認められており、むしろ合戦の際も輿に乗ることはその誇示と言う面があった。

 尚、筆者の地元愛知県東海市には今川義元のお墓と伝えられる供養塔がある。横須賀小学校の東方に「今川さん」と呼ばれる供養塔と、「今川義基墳」と刻まれた碑が建っている。桶狭間の合戦に破れた今川義元の家来がここまで逃げてきて、殿の遺体を永昌院〈塚の南方にあったお寺〉へ葬ったという。この塚は江戸時代の絵地図にも書き残されている。碑の文字が「義元」ではなくて、「義基」となっているのは、敵に見つかるのを防ぐためであったと伝えられている。