ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第421話 阿野全成の哀れ

序文・今若丸こと源隆超

                               堀口尚次

 

 阿野全成(ぜんじょう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で、源義朝の七男。源義経の同母兄、源頼朝の異母弟。7歳の時の平治の乱で父義朝が敗死したため幼くして醍醐寺にて出家させられた。以仁王の令旨が出されたことを知ると密かに寺を抜け出し、修行僧に扮して東国に下った。石橋山の戦いで異母兄の頼朝が敗北した後に、下総国鷺沼の宿所で頼朝と対面を果たした。兄弟の中で最初の合流であり、頼朝は泣いてその志を喜んだ

 頼朝の信任を得た全成は武蔵国長尾寺を与えられ、頼朝の妻・北条政子の妹である阿波局と結婚する。阿波局は頼朝の次男千幡〈後の実朝〉の乳母となった。全成は駿河国阿野荘を領有し鎌倉幕府御家人として仕えたとされる。

 頼朝が死去し、嫡男の頼家が鎌倉殿を継ぐと、全成は実朝を擁する舅の北条時政と結び、頼家一派と対立するようになる。先手を打った頼家は武田信光を派遣し、全成を謀反人として捕縛し御所に押し込めた。全成はその後に常陸国に配流され、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺された。享年51。

 全成は源(みなもと)性を名乗っていないが、元は源隆超でありまぎれもなく源氏の血を引いている。同母兄弟の源義経が幼名牛若丸であったのに対し、全成は今若丸と呼ばれていた。頼朝から阿野荘を与えられたことから阿野全成と名乗った。

 源氏の嫡流同士である叔父と甥の骨肉の争いは、北条家や比企家を巻き込んでの権力闘争に巻き込まれた観が否めない。頼家の乳母は比企氏であることから、「頼家=比企」VS「実朝=北条」の対立構造が露呈した形だ。全成には頼家を追放し、実朝を擁立することで後見人としての自分の勢力拡大を図った感も否めない。

 全成の死の様相については、静岡県沼津市に伝承が残されている。大泉寺〈全成が建立、全成と息子・時元の墓もある〉の社伝によれば、下野国で斬首された全成の首が、何と一夜にして遠く離れたこの地〈全成の領地だった〉まで飛んできたという。その首が、当地にあった首掛け松に引っ掛かったといわれている。その木はすでに枯れて見ることができないが、木があったとされるところに石碑が建てられている他、切り株の複製までもが残されている。 

 尚、後醍醐天皇の寵愛を受け後村上天皇を生んだ阿野廉子はその末裔である。また、幕末に活躍した玉松操〈国学者〉もこの阿野家の末流に連なる。