序文・江戸官僚の馬鹿息子が始めた
堀口尚次
旗本奴(やっこ)は、江戸時代前期の江戸に存在した、旗本の青年武士やその奉公人、およびその集団、かぶき者である。派手な異装をして徒党を組み、無頼をはたらいた。代表的な旗本奴は、水野十郎左衛門。代表的な団体が6つあったことからそれらを六方組(ろっぽうぐみ)とよび、旗本奴を六方とも呼ぶ。同時期に起こった町人出身者のかぶき者・妊客を町奴と呼ぶ。
慶長年間前後に現れた、大鳥居逸兵衛ら一党が、江戸のかぶき者の先駆とされる。中間(ちゅうげん)・小者といった下級の武家奉公人を集めて徒党を組み、異装・異風、男伊達(おとこだて)を気取って無頼な行動をとる等の「旗本奴」の様式は、大鳥居一派から引き継がれている。慶長17年幕府は大鳥居を筆頭に300人を捕らえ、斬首した。
発生の原因として「戦国の遺風」であるとか、「旗本の不満」が噴出したものといった説が挙げられるが、実際には旗本そのものよりも、旗本に奉公する者中心であったとされる。しかし、「大小神祇(じんぎ)組」を組織した水野十郎左衛門は、譜代の名門旗本・水野成貞の長男であり、それに加担した坂部広利も横須賀衆で先手組頭を勤めた5千石の大身旗本であり、さらに「かぶき大名」と呼ばれ、江戸の町で「夜更けに通るは何者か、加賀爪甲斐か泥棒か」と恐れられた加賀爪直澄〈甲斐守〉は将軍・徳川家光の小姓やのちには寺社奉行すら務めたれっきとした高坂藩主の大名であった。
「旗本奴」と「町奴」との間には抗争が絶えず、なかでも歌舞伎狂言『極付幡随院長兵衛』に描かれた、町奴・幡随院長兵衛〈町奴の頭領で日本の侠客の元祖ともいわれる〉を水野十郎左衛門が仕組んだ無防備な風呂場での暗殺、長兵衛側からの水野への仇討ちの件が著名である。
東京の伝統凧で、江戸凧とも呼ばれる「江戸奴凧」は、旗本奴や町奴の姿を模(かたど)っている。下級の武家奉公人で「槍持(やりもち)奴」という役目〈大名行列などの先頭で槍や衣類などの日用品を箱に入れて棒を通した「挟み箱」といわれる箱を運ぶ役目〉の者が着ていた半纏(はんてん)に描かれた釘抜紋(くぎぬきもん)の様子から、食材を大きめの立方体に切ることを「奴に切る」というようになり、そこから四角の立方体に切った豆腐のことを「奴豆腐」と呼ぶようになり、後に「冷奴」戸呼ばれるようになったという。
※旗本奴 奴凧 釘抜紋