序文・戦争回避を進言
堀口尚次
高松宮(たかまつのみや)宣仁(のぶひと)親王は、皇族、海軍軍人。大正天皇の第三皇子。「なるべく近くに」と長兄・昭和天皇の内意より、横須賀海軍航空隊教官に補される。太平洋戦争開戦前夕の11月20日、軍令部部員と大本営海軍参謀を務め、日本軍の実情を知り、燃料不足を理由に長兄・昭和天皇に対し開戦慎重論を言上する。昭和天皇は当初宣仁親王を主戦論者と見ていた為衝撃を受け、総理兼陸軍大臣・東條、軍令部総長・永野、海軍大臣・嶋田を急遽呼んで事情を聞いたという。戦後、GHQ戦史室調査員・千早が親王に当時の心境を尋ねると、戦争回避は難しいと知りながらも「真相を申し上げるのは直宮(じきみや)〈天皇と直接の血縁関係にある皇子や皇兄弟〉としての責務である。」と語っている。
宣仁親王は昭和天皇のもとに行啓(ぎょうけい)〈出向き〉し、開戦について意見を交わした。その際、統帥部の予測として「五分五分の引き分け、良くて六分四分の辛勝」と伝えた上で、敗戦を懸念する昭和天皇に対し、翌日に海軍が戦闘展開する前に戦争を抑え、開戦を中止するよう訴えた。だが昭和天皇は、政府・統帥部の意見を無視した場合、クーデターが発生してより制御困難な戦争へ突入すると考えており、宣仁親王の意見を聞き入れることはできなかった。
側近の御用掛・細川によれば、信任する高木海軍少将や神海軍大佐などと協力して、戦争を推し進める東條の暗殺さえ一時は真剣に考えていたという。
宣仁親王は昭和19年夏ごろには、政府の方針に異を唱える言動を繰り返しており、「絶対国防圏が破られた以上、大東亜共栄圏建設の理想を捨て、如何にしてより良く負けるかを模索すべきだ」「一億玉砕など事実上不可能。新聞などは玉砕精神ばかり論じていて間違っている」と主張していた。
大戦末期にはフィリピンに向かう大西海軍中将に対して「戦争を終結させるためには皇室のことは考えないで宜しい」と伝えたという。
昭和20年8月15日、玉音放送において兄・昭和天皇が読み上げた「終戦の詔書」について、「天皇が国民にわびることばはないね」と天皇の責任〈昭和天皇の戦争責任論〉について指摘している。
【総括】一番身近で、兄〈昭和天皇〉を見てきた宜仁親王だからこその生涯であったように思う。立場は違うが、ご自分なりの道を全うされたのだ。