ホリショウのあれこれ文筆庫

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第430話 高松宮宣仁親王

序文・戦争回避を進言

                               堀口尚次

 

 高松宮(たかまつのみや)宣仁(のぶひと)親王は、皇族、海軍軍人。大正天皇の第三皇子。「なるべく近くに」と長兄・昭和天皇の内意より、横須賀海軍航空隊教官に補される。太平洋戦争開戦前夕の11月20日、軍令部部員と大本営海軍参謀を務め、日本軍の実情を知り、燃料不足を理由に長兄・昭和天皇に対し開戦慎重論を言上する昭和天皇は当初宣仁親王主戦論者と見ていた為衝撃を受け、総理兼陸軍大臣・東條、軍令部総長・永野、海軍大臣・嶋田を急遽呼んで事情を聞いたという。戦後、GHQ戦史室調査員・千早が親王に当時の心境を尋ねると、戦争回避は難しいと知りながらも「真相を申し上げるのは直宮(じきみや)〈天皇と直接の血縁関係にある皇子や皇兄弟〉としての責務である。」と語っている。

 宣仁親王昭和天皇のもとに行啓(ぎょうけい)〈出向き〉し、開戦について意見を交わした。その際、統帥部の予測として「五分五分の引き分け、良くて六分四分の辛勝」と伝えた上で、敗戦を懸念する昭和天皇に対し、翌日に海軍が戦闘展開する前に戦争を抑え、開戦を中止するよう訴えた。だが昭和天皇は、政府・統帥部の意見を無視した場合、クーデターが発生してより制御困難な戦争へ突入すると考えており、宣仁親王の意見を聞き入れることはできなかった。

 側近の御用掛・細川によれば、信任する高木海軍少将や神海軍大佐などと協力して、戦争を推し進める東條の暗殺さえ一時は真剣に考えていたという。

 宣仁親王昭和19年夏ごろには、政府の方針に異を唱える言動を繰り返しており、絶対国防圏が破られた以上、大東亜共栄圏建設の理想を捨て、如何にしてより良く負けるかを模索すべきだ」「一億玉砕など事実上不可能。新聞などは玉砕精神ばかり論じていて間違っている」と主張していた。

 大戦末期にはフィリピンに向かう大西海軍中将に対して「戦争を終結させるためには皇室のことは考えないで宜しい」と伝えたという。

 昭和20年8月15日、玉音放送において兄・昭和天皇が読み上げた「終戦詔書」について、「天皇が国民にわびることばはないね」と天皇の責任〈昭和天皇の戦争責任論〉について指摘している。

【総括】一番身近で、兄〈昭和天皇〉を見てきた宜仁親王だからこその生涯であったように思う。立場は違うが、ご自分なりの道を全うされたのだ。

※左から昭和天皇三笠宮高松宮秩父宮