序文・本当の勇気というもの
堀口尚次
永野修身(おさみ)は、日本の海軍軍人、教育者。最終階級および栄典は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍の三顕職である連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長を全て経験した唯一の軍人。千葉工業大学の創設発案者。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンで急性肺炎を患い、米国陸軍病院へ搬送され治療を受けたがその後死亡する。
アメリカをはじめとする戦勝国に真珠湾作戦を許可した責任を問われ、A級戦犯容疑者として極東軍事国際裁判に出廷すると永野は裁判中、自らにとって有利になるような弁明はせず、真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとして戦死した山本五十六に真珠湾攻撃の責任を押しつけようとはしなかった。また、真珠湾攻撃について記者に訊ねられても「軍事的見地からみれば大成功だった」と答えるなど最後まで帝国海軍軍人として振舞った。この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャードソン米海軍大将は真の武人と賞し、被告席にいた永野に「あの雄大な真珠湾作戦を完全な秘密裡に遂行したことに対し、同じ海軍軍人として被告永野修身提督に敬意を表する」と伝えた。また、ある米国の海軍士官が永野に質問した際、彼は「この後、日本とアメリカの友好が進展することを願っている」と述べたとされる。
裁判途中の昭和22年1月2日に外気がまともに吹き込む独房での居留を強いられた〈吹き込む外気を防ぐための措置までも妨害された〉結果、寒さのため急性肺炎にかかり巣鴨プリズンから米国陸軍病院へ移送後同病院内で死去した。〈彼の病死が作為的な状況のもとに引き起こされたことで、彼の証言を恐れた連合国側の政治的意図によって、病死させられたとの見方も可能である。〉
永野は公明正大な人物と知られ、親類でも特別扱いはせず、親族は一般の兵士と同様、特攻隊〈回天部隊〉などに配属された。また、海軍内でも責任感が強くケジメを大切にする人物として知られ、戦争を防止できなかった責任は自らにもあるとして敗戦の将らしく潔く裁判を受け入れた。
永野は生前の放送で「本当の勇気というものは、人に親切で温順であって、一寸見てもわからぬが、いざ自分の務めを果たすべき時には、如何なる障害をも打ち破って進むという大きな力になって顕れてくるものです」と語っている。