序文・選択条件「孤独に耐えうる者」
堀口尚次
伏龍(ふくりゅう)は、第二次世界大戦末期の大日本帝国海軍による特攻兵器。「人間機雷」とも呼ばれる。潜水具を着用した兵士が浅い海底に立って待ち構え、棒付き機雷を敵の上陸用舟艇に接触させ爆破するという特攻戦法のことである。
利用された潜水具は、昭和20年3月末に海軍工作学校が1ヶ月で試作した代物で、逼迫(ひっぱく)する資材と戦況に対応するため、出来得る限り既製の軍需品を用いて製作された。ゴム服に潜水兜を被り、背中に酸素瓶2本を背負い、吸収缶を胸に提げ、腹に鉛のバンド、足には鉛を仕込んだ草鞋(わらじ)を履いた。潜水兜にはガラス窓が付いているが、足下しか見えず視界は悪く、総重量は68kgにも及んだ。2ヶ月の短期間で、訓練用の航空機やその燃料が枯渇しつつあった海軍飛行予科練習生の生徒数に見合う3,000セットが調達される予定であった。
待機限界水深は、棒機雷の柄が2メートルの場合は約4メートル以内、柄が5メートルの場合は7メートル以内。待機可能時間は約5時間。武装は炸薬量15キロの成形弾頭である五式撃雷〈通称・棒機雷〉。刺突機雷の五式撃雷は敵の舟艇が隊員の頭上を通過しない限り有効な一撃は与えられず、機雷が爆発すれば、水を伝わる爆圧で隊員はほぼ確実に死ぬものだった。
装備に多数の欠陥が存在し、訓練だけで多数の死者を出したが、それでも最後の砦という位置付けは変わらず、訓練は強行された。訓練中に横須賀だけで10名の殉職者を出している。
隊員は、各鎮守府から集められた寄せ集めであった。教育中止で本土決戦に向けて防空壕を掘っていた10代後半の予科練出身者に加え、緒戦で活躍した海軍陸戦隊の古兵も投入された。一般兵では呼吸のこつが呑み込めず事故が頻発したため、航空機搭乗員として身体能力に優れた予科練が選抜されたという。 選抜条件には「孤独に耐えうる者」が重視され、本来なら家を継ぐべきはずの長男が多く選ばれた。志願制ではなく、命令であった。部隊の展開時期は10月末を目標にしていたが、途中で終戦をむかえたため、伏龍が実戦に投入されることはなかった。
8月12日の中日新聞に元伏龍特攻隊員の方の記事があり、訓練で多発した事故に対し「誰がこんなえらいことことやれといったのかと思った」と回想する。