ホリショウのあれこれ文筆庫

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第441話 浮島丸事件の悲劇

序文・戦争の負の遺産は今も残る

                               堀口尚次

 

 浮島丸事件は、太平洋戦争終戦の日の後の昭和20年8月4日17時20分頃に、舞鶴港京都府舞鶴市下佐波賀沖300mの地点で、日本海特設運送艦浮島丸4,730総トン、乗組員255名が、3,725名4000人とする場合もあるの朝鮮向けの便乗者らを乗せて舞鶴港にて触雷沈没、乗組員25名戦死扱いと便乗者549名判明分の死者をだした事件である

 青森県大湊港より釜山へ向かう往路、連合軍の命令を受けて舞鶴に目的地を変更舞鶴港内で海底のアメリカ軍が敷設していた機械水雷の爆発により沈没した。沈没原因について様々な憶測を呼んだ事件だが、日本軍およびアメリカ軍の公式記録では共に海底の機雷の爆発〈触雷〉による沈没とされている。

 昭和20年、アメリカ軍は、日本の戦争遂行能力を喪失させる目的で、機雷による海上封鎖「飢餓作戦」を行った。使用された機雷は約11,000基で、主にアメリカ陸軍の大型爆撃機B-29によって敷設された。船の磁気反応や機関の音響、水圧変化など複数の作動パターンの機雷が混用され、しかも掃海を困難にするために1回目の反応では起爆しない回数機雷も使われた。日本海軍も必死に掃海に取り組んだが、複雑な仕組みと膨大な数のため困難で、670隻以上の艦船が撃沈されて海上交通は麻痺した。当時の舞鶴港は、舞鶴鎮守府が置かれた日本海屈指の軍港であったために重要な攻撃目標になり、磁気機雷、音響機雷が数多く敷設されていた

 昭和20年10月7日に神戸・魚崎沖で室戸丸〈355名〉、10月13日に神戸港沖で華城丸〈175名〉、10月14日には隠岐島勝本沖で珠丸〈541名〉、昭和23年1月28日に瀬戸内海牛島沖で女王丸〈304名〉など、戦後38年の間、139隻もの商船が触雷により沈没している。浮島丸以降の大型船5隻だけでも1,924名もの犠牲者を出している。

 飢餓作戦で投下された機雷は約6600個が日本周辺海域に残存し、戦後も日本の海運に影響を与えた。21世紀に入っても、海上自衛隊自衛隊法84条の2に基づく機雷処理業務を続けており、1999年から2008年にかけても年平均4個を処理している。アメリカ軍の飢餓作戦の影響は今日まで継続しているのだ。未だに不発弾処理のニュースが、度々聞かれるのも戦争の負の遺産なのだ。