ホリショウのあれこれ文筆庫

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第445話 久米島守備隊住民虐殺事件

序文・沖縄離島で起きた惨劇

                               堀口尚次

 

 久米島守備隊住民虐殺事件は、太平洋戦争時における沖縄戦の最中から終戦後に発生した、日本海守備隊による同島民の虐殺事件久米島事件とも呼ばれる。

 沖縄戦も終盤にさしかかった昭和20年6月、アメリカ軍はそれまで放置していた久米島を攻略するため、上陸作戦の2週間前に工作部隊が上陸し情報収集のため住民の16歳の少年も含む男性2名を拉致した。この男性らの情報から、島にはわずか27名の日本海軍が久米島に設置したレーダーを管理運営する通信兵などの守備隊しか駐留していないことを知ったアメリカ合衆国海兵隊は、上陸部隊の兵員を966人に減らしたという。久米島守備隊は武器弾薬に乏しく実戦部隊でなかったため、ほとんど組織的抵抗もできないまま山中に撤退し、久米島は占領された。

 牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないものであった事に加え、沖縄戦に参加していた日本軍の指揮系統が崩壊していたため、組織的戦闘が終結した事実や、既に内地の大本営からも事実上見放されたことが正確に伝わらず、この後も残存兵力による散発的な戦闘が沖縄本島各地で続いていた。沖縄本島と同様に久米島に残された少数の守備隊も疑心暗鬼のなか勝算なきゲリラ活動を続け、そのなかで住民虐殺が発生した。拉致された住民はアメリカ軍の上陸時に解放されたが、守備隊の鹿山兵曹長拉致被害者に対し、アメリカに寝返ったのではないかという疑問を抱いた。鹿山兵曹長はまず、アメリカ軍に拉致され降伏勧告状をもっていくように命令されて部隊にやってきた久米島郵便局の電信保守係〈郵便局長という説もあり〉であった安里を銃殺刑に処した。工作部隊によって拉致されていた区長の小橋川と区警防団長の糸数盛保の2家族9人を処刑し、その遺体を家屋ごと焼いた

 兵曹長による刑罰はその後も続き、部下の兵士と義勇軍を「斬込隊」としてアメリカ軍に特攻させ、生きて帰ってきた部下を「処刑」した。また、アメリカ軍からの投降を呼びかけるビラを持っていたり、投降しようとした者についてもスパイもしくは利敵行為〈戦前の刑法では罪となった〉であるとして処刑を行った。兵曹長は守備隊の最高司令官として徹底抗戦の構えをみせ、山にこもって戦うように住民に指示し、従わないものは処刑すると警告した。また処刑には地区の住民も命令に従い協力したという。住民の中には鹿山と共に山に立てこもった者も少なくなかったが、戦況はアメリカ軍有利であることが明白であり、またアメリカ軍は「〈山から出て〉帰宅しないと山を掃討する」と伝達されていたうえ、実際に久米島の実務はアメリカ軍政府が掌握しており、住民の多くはその命令に従わなかったという。なお、当時の島には3000戸の住宅と7073名の労働人口があったという。

 守備隊は一家4名を処刑したほか、さらには鹿山隊長は島の16歳の少女を連れ逃げまわる一方で、具志川村字上江洲に住むくず鉄集めで生計を立てていた朝鮮人谷川昇一家を住民と部下に命令して惨殺した。この行為は日本が降伏した以降の出来事であった。そのため、海軍刑法が禁ずる停戦命令後の私的戦闘の疑いもある。

 昭和天皇による玉音放送で『終戦詔書』が伝達されている事実をしらされたこともあり、守備隊も最後は全面的に降伏した。最終的に守備隊が処刑した5件で住民は22人〈一説では29人〉となる。また守備隊の中にも命令に服従しなかったとして3人が処刑された。そのなかには前述のように突撃命令で特攻し、生還した兵士もいた。

 当時の責任者だった日本海軍通信隊の守備隊のトップであった鹿山海軍兵曹長〈事件当時32歳〉は、戦後の昭和47年にサンデー毎日のインタビューに応じ、処刑の事実を認める一方で、日本軍人として正当な行為であったと自らの正当性を主張した

大島幸夫著の『沖縄の日本軍』によれば、一家を殺害した理由について鹿山は、朝鮮人一般の反日的傾向から「こやつも将来日本を売ることになる」と危惧し、その旨を住民に説明した、いずれにしても、朝鮮人および久米島島民に対して深い疑心暗鬼の感情を現在も抱いている一連の発言に対して、当時の久米島にあった2つの村議会は鹿山個人に対する弾劾決議を採択したとし、また虐殺された島民の遺族からも強い不快感が示されたとしている。

 これら一連の虐殺事件は、終戦直後の混乱と日本政府からの管轄権分離という非常事態もあり、一切の刑事訴追を受けていない。そのため、事実上のクーデター未遂事件である宮城事件と同様に誰も罰せられることはなかった。