ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第452話 不運の二代目・源頼家

序文・祖父の源義朝と同じ入浴中に殺害された運命

                               堀口尚次

 

 源頼家は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍〈鎌倉殿〉。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子〈頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男〉。父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、更に3年半後に征夷大将軍となる。母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされる。

 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝(さねとも)を担(かつ)北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになる。

 頼家の側近や政治的後見人はいずれも頼朝が選んだ人物であったが、その顔ぶれにより次の世代が比企氏中心となることが明らかであった。そのため、頼家政権における権力闘争は、頼朝が頼家のために敷いた政治路線と、その政治路線ではいずれ政権の中枢から外されることになる北条氏との対立であった。 頼家は父・頼朝のように武家の棟梁として振る舞おうとする意識を持つ武断派の将軍であり、若さゆえの未熟さや暴走は見られるものの、一方で政子が頼家の暴走に火に油を注ぐ対応をして、頼家の権威を失墜させようとしていた。つまり、頼家は実力を発揮する前に政子や北条氏に揺さぶられて殺害されたと考えられる。

 頼家は伊豆国修禅寺に護送され、翌年の元久元年7月18日、北条氏の手兵によって殺害された。享年23〈満21歳没〉。『吾妻鏡』はその死について、ただ飛脚から頼家死去の報があったことを短く記すのみである〈7月19日条〉。殺害当日の日付の『愚管抄』によると、抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえて刺し殺したという。南北朝期の史書である『保暦間記』では、入浴中に殺害されたとしている 。

 幽閉された伊豆国修禅寺には政子が頼家の供養のために建てた指月殿、江戸時代に建立された頼家の供養塔などがある。また、近隣の子供達と付近の山々を遊びまわったりして子供の面倒見は良かったらしく、地元の有志によって子を思う頼家を偲んだ将軍愛童地蔵尊が建てられている。