ホリショウのあれこれ文筆庫

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第454話 GHQが認めた米内海軍大臣

序文・日本内部からの崩壊を憂慮

                               堀口尚次

 

 米内光政(よないみつまさ)は、連合艦隊司令長官海軍大臣内閣総理大臣を歴任した。

 鈴木内閣の陸軍大臣だった阿南惟幾終戦の日当日に「米内を斬れ」と言い残して自決したが、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。戦犯として拘束されることを予期し、巣鴨プリズンへ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった。

 米軍側は米内の以前の言動を詳細に調査しており、GHQの某軍人が元秘書官の麻生孝雄のもとを訪ねた際、いきなり米内のことを切り出し「米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」と断言し、麻生に米内の伝記を書くことさえ勧めている。また多くの軍人が「米内さんだけは戦犯にしてはいけない」と奔走したという話もある。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣・幣原(しではら)内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。

 米内は「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天祐(てんゆう)〈思いがけない幸運〉だった」続けて「国内情勢で戦いをやめるということを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾ソ連の参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態食糧事情などによる国内秩序の崩壊から日本が内部から崩壊することが主である。軍令部あたりも国内がわかっておらなくて困るよ」と近衛文麿などに語った。

 海軍省最後の日となった11月30日に、海軍大臣として挨拶をした際にも、朝日新聞の海軍担当記者が作った原稿を読んだ後「では皆さん、さようなら」とだけ喋って終わった。幣原内閣において海軍省は廃止され第二復員省となったことから、米内が日本で最後の海軍大臣となった。

 米内の死後12年を経た昭和35年森岡八幡宮境内に背広姿の米内の銅像 が立てられ、除幕式が行われた。その直前に、巣鴨プリズンから仮釈放された81歳の畑俊六〈元陸軍大将A級戦犯〉が黙々と会場の草むしりをしていた。