序文・すがる想いは誰にもある
堀口尚次
私たちは「宗教」と聞くと、なんか胡散臭(うさんく)さを感じてしまう傾向がありはしないだろうか。伝統仏教やキリスト教などならまだしも、いわゆる「新興宗教」となると身構えてしまう。なぜなのだろう。
私なりの解釈では、そこには「しつこい勧誘」であったり、「金銭授受」が絡んでいることが原因ではないだろうかと思う。さらにそこに政治が関係してくると、まさに「胡散臭さ」を感じざるを得ないのだ。現在の状況が「信教の自由」と「政教分離」が矛盾せずに共存しているとは思えない。
信じることは自由であり、勧誘活動も自由である。だから自分の信ずる教え〈宗教〉が正しいと思うことは自由であり、一人でも多くの人を自分の信じる宗教に勧誘することは、ごく自然の行動だと思う。ただし、この勧誘方法や勧誘手段に行き過ぎがあったり、違法行為〈霊感商法の様な〉があってはならない。「自分が信じる宗教が正しい」はいいのだが、「自分が信じる宗教が一番。他の宗教は邪道」となると、そこから「傲慢(ごうまん)な自分」に気づかなくなってしまうのではないか。これは熱心な信者ほど陥りやすいと思う。
仏教には『邪険(じゃけん)驕慢(きょうまん)悪(あく)衆生(しゅじょう)』というお経の一節がある。衆生〈人間〉には、「邪見」があり、「憍慢」の心が常にはたらいている。「邪見」とは、真実に背いたよこしまな考え方の意。また「憍慢」は、自ら思い上がり、他を見下して満足する心のはたらきの意。但し、仏教宗派によっては「折伏(しゃくぶく)」という重要な教えもあり、これは「人をいったん議論などによって破り、自己の誤りを悟らせること」であるが、この時に「傲慢な自分」に気が付いていないことがあるのではないだろうか。
「我こそは正しい、我が宗教こそが絶対」と信じ込む無謬(むびゅう)性(せい)は、自分本人が陶酔している内はいいのだが、他人への勧誘となったとたんに、傲慢になり「邪険驕慢」な、信者獲得が目的になってしまう。信者獲得は手段であり、目的は信じる宗教の教義の伝授であるはずなのだ。
より多くの人に正しい教えを広め、世の中を良くしようとする崇高な考えには賛同する。そのことと、そのことを達成するための教団の拡大は同じではない。数の力で世の中を変えるのは政治の分野だ。宗教は数の力ではなく、人の心の中を問題にする、いわば哲学であるべきだと思う。
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