ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第459話 平民宰相・原敬

序文・平民初の総理大臣

                               堀口尚次

 

 原敬(たかし)は、陸奥国岩手郡本宮村〈現:岩手県盛岡市〉出身であり、祖父の原直記は盛岡藩家老、父の原直治は盛岡藩側用人を務めた。

 『郵便報知新聞』記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光井上馨からの信頼を得た。外務大臣時代には外務官僚として重用されたが退官。立憲政友会の発足に参加して政界に進出。大正7年総理大臣に就任。それまで内閣総理大臣9人の族籍は全員華族であったが、原は平民であったため、「平民宰相(さいしょう)」と渾名(あだな)された。大正10年、東京駅で暗殺された。

 首相就任前および就任直後の原に対する民衆の期待は大きく、特に故郷盛岡ではかつて朝敵とされた地からついに首相が生まれたと、盛大な祝賀行事が行われた。また「平民宰相」と渾名され、大正デモクラシーの最中でこの言葉は流行語となった。原の肖像と「平民宰相原敬先生」という文言が描かれた置き薬の箱が配られたり、「平民食堂」「平民酒場」が各地に開かれたりした。新渡戸稲造尾は原の首相就任により階級的道徳の時代が終わり、国民的道徳の時代が訪れたと評した。吉野作造は国民の期待と信頼が原内閣を生み出したと評し、憲政会の加藤高明ですら「憲政の進歩」であると評価せざるを得なかった。海外の新聞でも平民でありながら実力者である原の内閣は民主主義・議会主義の拡大につながるであろうという好意的な評価が寄せられた。また新聞各紙では閣僚の人選も公平であると高評価であった。一方で原は「あまり期待しても期待外れになる」と周囲に漏らしていたという。

 東京駅にて国鉄職員であった中岡良一に心臓を刺され、死亡した。ほぼ即死であったとされる。享年66。山縣有朋は原の死に衝撃を受けたあまり発熱し、夢で原暗殺の現場を見るほどであった。その後「原という男は実に偉い男であった。ああいう人間をむざむざ殺されては日本はたまったものではない」と嘆いている。

 岩手県の名物である「わんこそば」の発祥は原に由来するものであるという説がある。原は母リツが米寿を迎えた頃から毎年夏には盛岡に帰郷し、母が住む別邸「介寿荘」に市民を招き、さんさ踊りや蕎麦でもてなした。このときに出された蕎麦が中蓋に薬味を載せた「椀コそば」であり、原夫妻がもてなしのために考案したものであるとされる。