ホリショウのあれこれ文筆庫

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第466話 富田メモ

序文・戦後のタブー

                               堀口尚次

 

 富田メモとは、平成18年7月20日日本経済新聞朝刊により、その存在が報道された元宮内庁長官富田朝彦がつけていたとされるメモ〈手帳14冊・日記帳13冊・計27冊〉。特に昭和天皇靖国神社参拝に関する発言を記述したと報道された部分を指す。昭和天皇第二次世界大戦A級戦犯靖国神社への合祀に、強い不快感を示したとされる内容が注目された。メモ全体の公刊や一般への公開はされていない。

 メモは、「私は或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記している。松岡は日独伊三国同盟を締結し、A級戦犯で合祀されている元外務大臣松岡洋右、白取はこれもA級戦犯で合祀されている元駐イタリア大使の白鳥敏夫、筑波は1966年に旧厚生省からA級戦犯祭神名票を受け取りながら合祀しなかった靖国神社宮司の筑波藤磨とみられる。昭和天皇は、筑波宮司A級戦犯合祀に慎重であったのに対し、筑波が退任後、A級戦犯が合祀されたことに懸念を表明し、その中でも松岡洋右白鳥敏夫までもが合祀されたことに強い不快感を表明した。

 メモは、さらに「松平の子の今の宮司がどう考えたのか」「松平は平和に強い考があったと思うのに」と記している。「松平」は終戦直後の最後の宮内相の松平慶民。「松平の子」は、慶民の長男で1978年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司松平永芳とみられる。松平慶民は宮中に長く仕え、昭和天皇もその人物をよく知っていたが、その子供である松平永芳が、「易々と」合祀してしまったことに対して昭和天皇は「親の心子知らずと思っている」と、強い不快感を表明した。末尾には「だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と記述されている。

 1988年当時の宮内庁長官富田朝彦は、宮内庁次長と宮内庁長官を務めた時期に、昭和天皇の側近として、天皇と会話した内容や天皇自身の発言を几帳面にメモとして記録していた。2003年に富田が亡くなった後も、メモは遺族によって大切に保存され、2006年一部が公開された。

 日記の全てを公開しない理由については、昭和天皇の極めてプライベートな発言が多数記述されているためとされている。