ホリショウのあれこれ文筆庫

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第467話 北一輝の目指した国家像

序文・社会民主主義

                               堀口尚次

 

 北一輝(いっき)明治16年昭和12年は、戦前の日本の思想家社会運動国家主義二・二六事件皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した

 「明治維新の本義は民主主義にある」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。すなわち、「天皇の国民」ではなく、「国民の天皇」であるとした。国家体制は、基本的人権が尊重され、言論の自由が保証され、華族貴族院に見られる階級制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、再度、この達成に向け「維新革命」「国家改造」が必要であると主張した。

日本を社会民主主義の国とすることを夢見ていた若い頃の北は、明治維新後の日本の民主化が進まないことを批判し、その原因を、「維新革命〈明治維新〉の民主主義」が「無計画の暴発」であったためとした。北は、ヨーロッパの革命が新社会の理想を描いた計画的革命であったのに対して、「維新革命は戊辰戦役において貴族主義に対する破壊を為したるのみにして、民主主義の建設は帝国憲法によりて一段落を画せられたる、二十三年間の継続運動なりとす」、つまり、自由民権運動の23年間の運動が維新後に民主主義の建設を行ったと論じた。

 昭和11年二・二六事件で逮捕。昭和12年、民間人にも関わらず、特設軍法会議で、二・二六事件の理論的指導者の内の一人とされ、死刑判決を受ける。処刑前日、面会に訪れた弟子に対して、「日本改造法案大綱」の出版を許可しながらも、「・・・君達はもう一人前になっているのだから、あれを全部信ずる必要は無い。諸君は諸君の魂の上に立って、今後の国家の為に大体ああ云うものを実現する心持で努力すればよろしい」と告げた。5日後の8月19日、事件の首謀者の一人とされた陸軍予備役軍人の西田税らとともに銃殺刑に処された。満54歳没。辞世の句は「若殿に兜とられて負け戦」。

 法華経読誦を心霊術の玉照師〈永福寅造〉に指導され、日頃から大きな声で読経していた事がよく知られている。北一輝は龍尊の号を持つ。弟の昤吉によると「南無妙法蓮華経」と数回となえ神がかり〈玉川稲荷〉になったという。