ホリショウのあれこれ文筆庫

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第474話 ユダヤ人を救った陸軍中将


序文・東条英機マッカーサーも味方につけた

                               堀口尚次

 

 樋口季一郎は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。

 前夜第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満州国通過を認め、「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路が有名。大戦中はアッツ島の戦いキスカ島撤退作戦、ソ連対日参戦に対する防衛戦闘を指揮した。

 昭和12年、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口〈当時陸軍少将〉らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチ政権下のドイツユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた

 そうした状況下、翌昭和13年ユダヤ人18人がドイツの迫害下から逃れるため、ソ満国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である米国の上海租界に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。

 極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施。更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満州鉄道満鉄総裁だった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた

 その後、ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、東亜旅行社〈現在の日本交通公社〉の記録によると、ドイツから満洲里経由で満州へ入国した人の数は、1938年だけで245人だったものが、1939年には551人、1940年には3,574人まで増えている。

 樋口がユダヤ人救助に尽力したのは、彼がグルジアを旅した際の出来事がきっかけとされている。ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中チフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄ると、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人であり、樋口が日本人だと知ると顔色を変えて家に招き入れたという。そして樋口に対し、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた。オトポールに辿り着いたユダヤ人難民の報告を受けたとき、樋口はその出来事が脳裏をよぎったと述懐している

 この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッベントロップ外相〈当時〉からの抗議文書が届いた。また、陸軍内部でも樋口に対する批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった。そんな中、樋口は関東軍司令官植田謙吉大将〈当時〉に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍参謀長東条英機中将〈当時〉と面会した際には「ヒットラーのお先棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる。この言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問とした。東条の判断と、その決定を植田司令官も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した。

 日本の降伏直前の1945年8月10日、ソ連対日参戦が発生。北方軍を指揮していた樋口は停戦後の8月18日以降、占守島南樺太におけるソ連侵攻軍への抗戦を指揮し、これを成功させた。そのため極東国際軍事裁判に際し、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。しかし世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。世界的な規模で樋口救済運動が展開された結果、日本占領統治を主導していた連合国軍最高司令官総司令部GHQ〉のダグラス・マッカーサーソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した

 1946年に北海道小樽市外朝里にソ連の動きもあり隠遁(いんとん)。さらに1947年に宮崎県小林市〈その後、都城市〉へ転居する。その後も役職につかず事実上隠遁生活を送り続けた。樋口隆一によると、過去は語らず、アッツ島の絵の前で毎朝、戦死者の冥福を祈っていた。