ホリショウのあれこれ文筆庫

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第502話 東洋のパナマ運河・松重閘門

序文・船の階段

                               堀口尚次

 

 松重(まつしげ)閘門(こうもん)は、愛知県名古屋市中川区でかつて供用されていた閘門である。1968年に閉鎖され、現在は閘門としては使用されていない。堀川と中川運河とを結び、近代期の名古屋の産業発展を水運面で支えていた遺構である。

 閘門は、水位の異なる水面をもつ河川運河水路に設けられるを通航させるための施設。異なる水位間に水位が変化しうる一区画を設けて区画内の船を上下できるようにした設備を水閘、水閘を区画するための界壁を閘門という場合もある。

 松重閘門は、大正期に名古屋市都市計画事業の一環として、自然河川「中川」の川幅を拡張する形での中川運河整備が計画された際、並行する堀川との連絡を図る必要性があげられたことにその誕生の端を発する。両者を接続するにあたり、堀川と中川運河では堀川の水位が約1m高いため、パナマ運河と同様の閘門による水位調節を行う事となり、1930年〈昭和5年〉に建設を開始、1932年〈昭和7年〉から供用が開始された。運用開始時には「東洋一の大運河」「東洋のパナマ運河」として名古屋名物の1つとなったという。

 水上交通が輸送の主役を担っていた時代は松重閘門を利用する船も多かったとされるが、その後自動車輸送に物流の中心が移行すると閘門の必要性も減少し、1968年〈昭和43年〉に閉鎖、1976年〈昭和51年〉に公用廃止となった。

 尖塔(せんとう)は閘門の使用停止後には取り壊される予定であったが、保存を求める住民運動などもあって存続した。1986年〈昭和61年〉には名古屋市有形文化財、1993年〈平成5年〉には名古屋市の都市景観重要建築物等に指定されている。また2010年〈平成22年〉には公益社団法人土木学会により選奨土木遺産に指定されている。2012年には、名古屋市が主催した第1回名古屋まちなみデザインセレクションでの市民投票により、まちなみデザイン20選(第1回)に選定されている。

 私は過日ここを訪れたが、工事中で遺跡の看板が立ち入り禁止区域内となっていたが、親切な現場監督さんの許可を得て、立ち入らせて頂いた。東洋のパナマ運河といわれた時代は遠い昔となり、辺りは閑散としていたが、先人の苦労が感じられた。