序文・民事訴訟法学の大家
堀口尚次
雉本朗造(きじもとときぞう)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は法学博士。愛知県愛知郡鳴海町笠寺鳴尾〈現・名古屋市緑区〉生まれ。
ドイツで民事訴訟法を学んだ後に帰国し、日本の民事訴訟法を体系化。我が国の民事訴訟法学の基礎を築いた。ドイツ法学に依拠する証明責任論を展開し、真偽不明論を提唱した。また、「生きた法学実践」活動として、兼任していた立命館大学の付属研究所の設立に関与するも、雉本の急死でこの研究所は2年という短期間で閉鎖された。
雉本は、「大正デモクラシーの理論的旗手」と称されている。大正6年、鳴海の小作人は、長雨を原因とする凶作を理由に小作料の引き下げを要求し、鳴海小作争議が勃発する。雉本家にかつて出入りしていた小作人が、大学教授で高い法律知識をもつ雉本に争議への協力を願い出た。大正9年に仲裁に入った雉本に対し、地主側がまったく応じようとしなかったため、雉本は農民の側に立って裁判の参加に踏み切る。この時、立命館大学付属法律研究所も支援。争議は長引き、大正11年には帝国議会でも問題となり、小作争議を支援した雉本は非難された〈雉本の死の翌年に和解が成立し、小作料が引き下げられた〉。
大正11年3月、静養先からの帰途、瀬戸内海を航行中の船上から姿を消し、数日後海岸に遺体が漂着しているのが発見さた。死因については、自殺、事故、他殺とさまざまな憶測が流れたが、結局はっきりした原因はわかっていない。その後争議は地主と小作人との和解ということになるが、小作人たちは従来より有利な成果と権利を手に入れることができた。小作人たちは雉本の恩義に報いるため寄付金などをつのって制作したのが、現在浦里公園に建っている銅像。
なおこの銅像は昭和5年、前之輪近くの石堀山〈現在地より2kmほど南〉へ建てられ、戦後〈昭和48年〉現在の場所に移転された。太平洋戦争では、物資不足のため多くの銅像が兵器製造のため供出されたが、この銅像は幸運にも供出を免れた奇跡の銅像でもある。
私は過日この銅像を訪れ、不幸な死を遂げた雉本を偲び、恩義に報いた小作人たちにも想いを馳せた。雉本の小作人救済の戦いは、戦後のGHQの農地開放へも繋がる行動だと思う。