序文・社会主義者の騒乱と群集心理
堀口尚次
大須事件または大須騒擾(そうじょう)事件とは、昭和27年7月7日に愛知県名古屋市中区大須で警察部隊とデモ隊が激しく衝突した事件。騒乱罪の成立が裁判所で認められた公安事件である。
昭和27年、日本社会党の参議院議員・改進党の衆議院議員・参議院議員〈緑風会〉が、当時国交が樹立されていなかったソビエト連邦及び中華人民共和国を日本人として戦後初めて視察した。そして北京では「日中民間貿易協定」を結び、左翼陣営ばかりでなく経済界からも大きな注目を集めた。7月1日に帰国した代議士は、7月6日午後に名古屋駅に到着した。
代議士の歓迎のために約1,000人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、そのうちの電報局に勤める男が所持していた指示文書が押収された。これにより、翌日の歓迎報告会に火炎瓶を多数持ち込みアメリカ軍施設や中警察署を襲撃するという、日本共産党の軍事組織による計画が発覚した。
昭和27年7月7日の歓迎報告会当日、名古屋市警察本部は警備体制を強化し、1,000人以上の警察官を動員した。会場となった中区大須球場には、在日朝鮮人約1,000人・学生約800人・労働者約2,000人を混じえた総勢約7,000人が詰めかけ、三塁側観覧席中央には武装デモを指揮するために日本共産党名古屋市ビューローが設けた朝鮮民主主義人民共和国の国旗を目印とした"軍事部"が置かれた。この歓迎報告会は、東海産業経済調査所所長が中心となって開催したもので、代議士2名は聴衆の拍手で迎えられて名古屋青年合唱団による歌や花束贈呈の後、各会代表の挨拶が行われたが、代議士による報告演説が終わった午後9時47分ごろには球場内外で「アメ帝の番犬」などとビラが多数配布されていた。
報告演説の直後、名古屋大学の学生が「昨日、代議士を名古屋駅で迎えた人たちのデモに警官隊が襲いかかり、十数名を逮捕した。警察は中日貿易を切望する国民の運動を弾圧している。我々にはただ行動あるのみ、警察に断固抗議しなければならない」などとマイクでアジ〈扇動(せんどう)〉演説を始めた。司会者は慌てて閉会を宣言したが、「警官をやっちまえ」「デモを組め」「中署へ行け」「アメリカ村へ行け」などとこれに呼応した群衆や朝鮮人労働者らが赤旗を掲げて渦巻デモをはじめた名大生らに加わり、約1,500人に膨れ上がった。デモ隊はそのままスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。
名古屋大学の代表が先導するデモ隊は上前津交差点に向けて進んだが、これに警察の放送車が並走して、公安条例違反行為であり解散するよう勧告しながら、このまま行進すると強力な実力行使を行う旨を何度も警告した。午後10時5分頃、デモ隊は大須交差点東140メートルの車道で放送車に向かって火炎瓶や石を投げ始めた。火炎瓶は後部窓を破って車内に落ちて発火し、デモ隊員は右側ガラスを棒で叩き割って「馬鹿野郎」「税金泥棒」などと罵った。この衝突で、解散勧告の放送をしていた警視をはじめ、内部にいた警察官が火や硫酸の飛沫により負傷した。続いてデモ隊の一部によって駐車されていた路上のタクシーなど乗用車2台を放火されるなど、付近一帯は騒然となった。警視は孤立した状態で投石を受け、更に他の乗用車に火炎瓶を投げつけようとする"暴徒"の勢いを見て、午後10時15分頃にこれに向けて拳銃弾5発を発射した。警察部隊は暴動鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は近接戦を行わずに四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・槍竹・プラカードで攻撃を行い「ここまで来い、殺してやるぞ」などと挑発した。附近に設けられた阻止線上では火炎瓶と拳銃による応酬が行われた。またこれらデモ隊による騒擾とは別に、この日の午後8時50分頃には鶴舞公園内に停めてあった駐留軍の乗用車や名古屋東税務署に火炎瓶攻撃や投石が行われる事件も発生している。
この事件で、朝鮮人高校生1人が頭部盲貫銃創で死亡し、警察官69人・消防士2人やデモ隊員、流れ弾や火炎瓶によって負傷した一般人など、負傷者は84人に上った。また、警察放送車を含めて乗用車6台が火炎瓶などによる被害を受け、民家の塀や商店のウィンドケースも破壊された。
この事件を「日本共産党が朝鮮組織と連絡のうえ、計画準備した軍事的武装行動」とみた警察は大量検挙を行い、150人が起訴され、公判の途中に死亡したり公訴棄却となった被告を除く137人中126人が有罪、うち99人に騒乱罪が適用された。
騒動の舞台となった大須球場は今はなく、元は西本願寺名古屋別院が戦火で全焼した跡地にあった野球場であるが、後にスケート場となり伊藤みどり・安藤美姫・浅田真央などのオリンピック選手を輩出している。