ホリショウのあれこれ文筆庫

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第522話 レッドパージ

序文・マッカーサー赤狩り

                               堀口尚次

 

 レッドパージは、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAP〉総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ〈同調者〉が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた

 第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を担ったGHQは民政局〈GS〉を中心に、治安維持法などの廃止、特別高等警察の廃止、内務省と司法省の解体・廃止などの、日本の民主化を推進し、主要幹部が刑務所から釈放された日本共産党も、初めて合法的に活動を始めた。その結果、労働運動は過激化し、大規模なデモやストライキが発生するようになっていた。中国大陸では国共内戦毛沢東率いる中国共産党が優勢になると、アジア・太平洋地域の共産化を恐れるジャパン・ロビーの動きが活発化し、日本では、GHQの主導権がGSから参謀第2部〈G2〉に移り、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。

 1950年5月3日、マッカーサー日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突、6月6日にマッカーサー書簡を受けだ吉田内閣は閣議日本共産党中央委員24人、及び機関紙「アカハタ」幹部17人の公職追放を決定し、アカハタを停刊処分にした。こうした流れのなかで、マッカーサーは数次にわたり吉田首相に対し「共産分子の活動に関する書簡」を送付。各報道機関は1950年7月28日から書簡の趣旨に従い社内の共産党員、同調分子らに解雇を申し渡し始めた。

さらに同年9月の日本政府の閣議決定により、報道機関や官公庁や教育機関や大企業などでも日共系の追放〈解雇〉が行われていった〈なお、銀行業界などでは「当職場に共産党員は居ない」などとして、日共系の追放が最小限度に留まった例や、大学では日共系の追放がほとんど行われなかった例もあったし、逆に反対派を共産党員だとして名指しして解雇させ主導権を奪った国労のような例もあった〉。

当時の日本共産党は同年1月にコミンフォルムから『恒久平和のために人民民主主義のために!』において平和革命論を批判されたことにより、徳田を中心とする「書簡派」と宮本賢治を中心とする「国際派」に分裂した状態だったこともあり、組織的な抵抗もほとんどみられなかった。この間の6月25日には朝鮮戦争が勃発し、「共産主義の脅威」が公然と語られるようになった。

公職追放の指令それ自体は1952年のサンフランシスコ平和条約の発効とともに解除された。〈「教職追放の解除」により、民主化には不適合と見なされた軍国主義者・超国家主義者が、学校教育現場に戻った。〉職場でレッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、またレッドパージを受けたことがわかると再就職先にも差し支える状態であったといわれる。