序文・江戸屋敷人質のさきがけ
堀口尚次
芳春院(ほうしゅんいん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。加賀国〈石川県〉の戦国大名・前田利家の正室。名はまつ。篠原一計(かずえ)〈織田信秀=信長の父 に仕えた武将〉の娘。戒名は芳春院殿花巖宗富大禅定尼。母〈竹野氏〉が利家の母の姉であるため、利家とは従兄妹関係にあたる。学問や武芸に通じた女性であったと伝わる。尾張国海東郡沖島〈現在の愛知県あま市〉で生まれた。
天文19年、父・一計が死去し、母が尾張守護斯波(しば)氏の家臣と再婚すると、まつは母の妹が嫁いでいる尾張荒子城主・前田利昌〈加賀前田家の始祖〉に養育されることになった。永禄元年、数え12歳〈満11歳〉で利昌の子で従兄弟にあたる前田利家に嫁ぐと、11歳から32歳までの約21年間で2男9女を産む。なお、女性1人が産む子供の数が多かった戦国時代にあっても11人の実子がいる女性は稀有である。その子孫は近代以降の皇室などに血脈を伝えている。
天正11年、賤ケ岳の戦いで柴田勝家方に与した利家が敗走した際、越中府中城で羽柴秀吉に会って和議を講じて利家の危機を救った。慶長4年に利家が病死すると出家し、芳春院と号する。
慶長5年、前田家に徳川家康から謀反の嫌疑がかけられた際には、交戦を主張する利長〈利家の長男〉を宥(なだ)め、それを解消させるため自ら人質となって江戸に下り、14年間をそこで過ごした。なお、江戸に護送される手配を三人の年寄が行っており、家康の大名統制策は内付(ないふ)・五奉行体制に基づいており、その構成員を動員している。この場合の公儀の拠り所は秀吉遺言覚書であり、これによって家康の公儀としての性格を裏付けることが可能となるから、家康の一方的な権力の乱用とは必ずしも言えないのである。換言するならば、芳春院は公人として、豊臣政権の大老の生母としての扱いを受けながら江戸入りに至ったことを知らしめるものである。この間、関ケ原の戦いで西軍についた次男・前田利政の赦免や娘婿の宇喜多秀家の助命、養育していた利孝〈利家の五男〉の大名取り立てを江戸幕府に直訴するなど前田家のために奔走する。なお、後に江戸幕藩体制において諸大名妻子の江戸居住制が確立するが、芳春院はその第一号となる。