序文・源氏の血統の終焉
堀口尚次
公暁(くぎょう)は、鎌倉時代前期の僧侶。鎌倉幕府2代将軍源頼家の次男。幼名は善哉(ぜんざい)。
叔父である第3代将軍源実朝を父の仇として暗殺したが、直後に討ち取られた。公暁は実朝の猶子(ゆうし)〈養子〉であったため、義理の父親を殺害したことになる。
政子の計らいによって叔父の3代将軍源実朝の猶子となった。建暦元年9月15日に12歳で鶴岡八幡宮寺別当定暁の下で出家し翌日には受戒のため上洛する。はじめは頼暁という戒名を受け、公胤の弟子となってからは公暁の戒名を受けたものと見られる。建保5年6月20日、18歳で鎌倉に戻り、政子の意向により鶴岡八幡宮寺別当に就任した。
建保7年1月27日、雪が2尺〈約60cm〉ほど降りしきるなか、実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣する。夜になって参拝を終えて石段を下り、公卿が立ち並ぶ前に差し掛かったところを、頭布を被った公暁が襲いかかり、下襲(したがさね)の衣を踏みつけて実朝が転倒した所を「親の敵はかく討つぞ」と叫んで頭を斬りつけ、その首を打ち落とした。八幡宮の石段の上から「我こそは八幡宮別当阿闍梨(あじゃり)公暁なるぞ。父の敵を討ち取ったり」と大音声を上げ、逃げ惑う公卿らと境内に突入してきた武士達を尻目に姿を消した。
公暁は実朝の首を持って雪の下北谷の後見者・備中阿闍梨宅に戻り、食事の間も実朝の首を離さず、乳母夫の三浦義村に使いを出し、「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と言い送った。義村は「迎えの使者を送ります」と偽り、北条義時にこの事を告げた。義時は躊躇なく公暁を誅殺すべく評議をし、義村は勇猛な公暁を討つべく長尾定景を差し向けた。公暁は義村の迎えが来ないので、1人雪の中を鶴岡後面の山を登り、義村宅に向かう途中で討手に遭遇する。討ち手を斬り散らしつつ義村宅の板塀までたどり着き、塀を乗り越えようとした所を討ち取られた。享年20。
なお、公暁の墓は現存せず、墓所についての史料もない。かつて鶴岡八幡宮には「公暁の隠れイチョウ」と呼ばれるイチョウの大木が立っており、公暁がこの樹の陰に潜んで実朝を襲ったという伝説と共に親しまれていたが、この伝説が知られるようになったのは江戸時代になってからの事であり、当時の史料にはない話である。このイチョウは2010年3月10日の強風によって倒壊した。