ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第531話 トラトラトラを打電した淵田大佐

序文・伝道者になった空襲部隊指揮官

                               堀口尚次

 

 淵田(ふちだ)美津雄明治35年 - 昭和51年は、日本の海軍軍人、キリスト教伝道者。海軍兵学校52期。同期に源田実、高松宮宣仁親王らがいる。最終階級は海軍大佐。

 1941年8月25日、第一航空艦隊の赤城飛行長に着任した。淵田と海兵同期の航空参謀源田実中佐の希望であった。指名理由は極秘で準備していた真珠湾攻撃を成功させるため、優れた統率力、戦術眼を持ち源田と通じる同期生で偵察席に座り作戦の指揮に集中できる空中指揮官として淵田が必要だったからである。淵田によれば源田とは親友の関係にあったためまたともに仕事ができると喜んだという。異例の降格人事であったが、南雲忠一長官から「艦隊幕僚事務補佐」の肩書を与えられる。また他の隊長とは格が違うため、攻撃隊員らは淵田に「総隊長」の称号を奉った。草鹿龍之介参謀長は源田が案画し淵田が実行する好取組みと二人を評価し彼らの献策を入れて見守った。源田参謀により航空隊の訓練と指揮が空中指揮官にまとめられたため、淵田は一航艦全空母の航空隊を統一訓練指導した。1941年10月、海軍中佐。

 1941年12月、ハワイ作戦に参加。8日、真珠湾攻撃における空襲部隊の総指揮官で第1次攻撃隊を指揮し、「ト・ト・ト」全軍突撃せよ及び「トラトラトラ奇襲ニ成功セリが淵田中佐機から打電された真珠湾攻撃の戦果は戦艦4隻が大破着底戦艦2隻が大・中破するなど、米太平洋艦隊戦艦部隊を行動不能にする大戦果をあげた。攻撃後に淵田は源田とともに数日付近にとどまり留守だった敵空母を撃滅する案を進言したが受け入れられなかった。12月26日、第一次攻撃隊指揮官淵田と第二次攻撃隊指揮官嶋崎重和少佐は直接昭和天皇への真珠湾攻撃軍状奏上が許される。佐官による軍状奏上は初のことであった。その後二人は淵田と海兵同期の高松宮宣仁親王に誘われて27日、霞ヶ関離宮の皇族の集まりに顔を出した。

 1945年11月、予備役編入極東国際軍事裁判東京裁判〉では連合艦隊航空参謀として特攻で病院船2隻が沈んだことについて質問された。1945年12月〜1946年3月、第2復員省勤務。史実調査部、GHQ歴史科嘱託として戦中資料の整理研究を行った。その後、正規海軍将校のため公職追放となる。

 戦後、元空軍軍曹の宣教師ジェイコブ・ディシェイザーの書いたパンフレットを読みキリスト教に関心を持つ。1950年6月、日本基督教団堺大小路教会の斉藤敏夫牧師主催の平和集会に共鳴し、1951年、斉藤牧師司式のもと洗礼を受けた。以降淵田は1952年から1957年まで8度にわたりアメリカへ伝道の旅に出かけた。キリスト教の伝道をする淵田には海軍仲間の批判、アメリカのリメンバーパールハーバーの声、元特攻隊員が刀を持って押し入るなど障害も多かった。しかし淵田は自らが「真珠湾の英雄私がトラトラトラの淵田です」であることを伝道の武器にし、戦争は互いの無知から起こったとし、謝罪ではなく互いに理解するため戦争の愚かしさ、憎しみの連鎖を断つことを訴えた。

 NHKスペシャルで「ふたりの贖罪~日本とアメリカ・憎しみを超えて~」という番組があった。以下にNHKのHPからの文章を抜粋。

『憎悪が、世界を覆い尽くしている。どうすれば、憎しみの連鎖を断ち切ることができるのか。その手がかりを与えてくれる2人の人物がいる。70年前、殺戮の最前線にいた日米2人の兵士である。
「トラトラトラ」を打電した真珠湾攻撃隊の総指揮官、淵田美津雄。その後もラバウル、ミッドウェーを戦い、戦場の修羅場をくぐってきた淵田だが、1951年、キリスト教の洗礼を受け、アメリカに渡り、伝道者となった。
淵田が回心したのは、ある人物との出会いがきっかけだった。元米陸軍の爆撃手、ジェイコブ・ディシェイザー、真珠湾への復讐心に燃え、日本本土への初空襲を志願、名古屋に300発近くの焼夷弾を投下した。そのディシェイザーもまた戦後キリスト教の宣教師となり、日本に戻り、自分が爆撃した名古屋を拠点に全国で伝道活動を行った。
戦争から4年後の冬、ふたりは運命の出会いを果たす。ディシェイザーの書いた布教活動の小冊子「私は日本の捕虜だった」を淵田が渋谷駅で偶然受け取ったのだ。以来ふたりは、人生をかけて贖罪と自省の旅を続ける。淵田はアメリカで、ディシェイザーは日本で。
ふたりの物語は、「憎しみと報復の連鎖」に覆われた今の世界に、確かなメッセージとなるはずである。』

                     ※淵田とディシェイザー